有楽町マルイ8F、イベントスペースにて開催された『ザ・ビートルズ写真展&公式グッズ・ショップ』にて、11月4日 星加ルミ子元ミュージック・ライフ編集長によるトーク&サイン会が開催された。展示された長谷部宏撮影のパネルには、1965年の初取材から、来日公演、最後の全米公演、レコーディング中のスタジオのカットまで、ML誌を飾った星加編集長とビートルズとの歴史が収められ、それにまつわる貴重なエピソードが披露された。

私が会ったビートルズとの四年間(1965年〜1969年)──星加ルミ子


星加:ビートルズは音楽界のヒーローというだけではない、新しい文化を作り上げた一世紀にひとつ出るかどうかという四人組。私は幸いなことに彼らがデビューしてすぐに取材することができた──という話を取り混ぜてお話しさせていただきます。写真は全て長谷部宏(KOH HASEBE)さんが撮影したものです。

 

ビートルズを表紙にすることで売り上げを伸ばしていたミュージック・ライフ誌、しかし人気が上がるにつれビートルズは取材が難しく情報が少なくなる。危機感を抱いた会社は星加さんに<ロンドンでビートルズを取材するよう>社命を下す。その厳命を受けた星加さんは、期待を一身に背負いロンドンに飛び立つ。1965年、海外に行くことがまだ珍しい時代だった。
5月中旬、まずハンブルグに向かった星加さん。万が一ビートルズと会えなくても、彼らがデビュー前に出演していたクラブ(ライヴハウス)の取材で記事が作れるように「トップ・テン」「カイザーハウス」といった店の写真を撮りマネージャー/関係者に当時の話を聞いた。そしてパリに飛び長谷部宏カメラマン、通訳のジョー宮埼さんと合流。さらにフィリップス・レコードのコーディネイトで当時流行っていたフレンチ・ポップスの歌手、フランス・ギャル(「夢見るシャンソン人形」)他の取材、現地のラジオにもクロード・フランソワ(「マイ・ウェイ」作曲者)と共に出演するなど一週間を過ごし、いよいよロンドンに到着。

 

星加:ロンドンではビートルズ取材を直接申し込むために隠し球に持っていった日本刀(内一振りは本身)を、ビートルズのマネージャー/ブライアン・エプスタインに渡しました。イギリスは騎士の国ですから刀や甲冑に対するシンパシーがあると思ったんです。するとこの時彼の目がギラリと輝いたので、これは取材ができる!と確信しました──でも、なんとそれから三週間も音沙汰なしだったんです。
彼に“ビートルズの取材ができないとドーバー海峡かテムズ河に身を投げます”
とまで本気で言ったんですよ。そうしたらようやく明日は帰国…という6月15日の昼過ぎエプスタインから<17時にロビーで待つよう>とホテルにメッセージが入り、私はジョーさんに頼んでその日の他の取材を全部キャンセルしてもらい、慌てて着物を着、お土産や取材道具を持って、長谷部さんは撮影機材を準備し迎えを待ちました。

 

連れていかれたのはアビーロードにあるEMIのレコーディング・スタジオ。最初通されたミキシング・ルームでジョージ・マーティンに挨拶。そこから見える地下のスタジオにはビートルズの面々が。降りておいでと手を振るポール・マッカートニーに呼ばれてスタジオに降りると、真っ先に飛んできたジョージ・ハリスンが着物を触りながら“なぜこのベルトはこんなに太いの? 袖はどうして長いの?”と矢継ぎ早に質問。ジョン・レノンも“日本の女の子は皆んなこの格好をしてるの?”と聞くので、“今日はあなたたちVIPと会うのだから、日本ではこういう特別な格好をするんです”と答えるとポールが拍手。その後も話が弾み、サインや、読者からのQ&A、相撲の力士に会いたいというジョンから思いついたメンバーの手形をとり、ミニチュア兜のお土産を渡すなどありとあらゆる取材を3時間以上も行った。

 

 

星加:私が取材をしたこの記事が載ったミュージック・ライフ1965年8月号は、それまで5万部くらいの発行部数だったのが一気に25万部!尚且つ完売したんです。あとで聞いたんですけど、一人の人が保存用、切り抜き用と二冊も三冊も買ってくれたそうです。
この号の写真を始め、これ以降長谷部さんは海外アーティストの写真を数多く撮るようになるんですが、こんなにリラックスした普段着の表情をしているビートルズはないと思います。一歩外に出れば世界的なスーパースターの彼らが何のてらいもなく写っているというのは、やはりカメラマンKO HASEBEの手柄です。長谷部さん自身が非常ににこやかな方で相手に敵意を感じさせないんです。その後も私が記事、長谷部さんが写真というコンビで数多くのミュージシャンを取材しましたが、長谷部さんのカメラの前では誰もが子供のような表情に、自然体になるんです。本当にすごい力だと思います。


 

翌66年はビートルズの初来日で日本中が大騒ぎとなった。日本を離れるとき、エプスタインから “8月に北米を一周するコンサートをやるんだけど、一緒に来るかい?“と声をかけられ。 “もちろん行きます!”と即答した星加さん。程なくプレス・パスと、楽屋への出入りも自由のパスや、各所で自由に行動できる書付が届き、北米ツアー14都市のうち5都市でビートルズ同行取材をした。 翌67年の夏エプスタインが急死、お悔やみに伺おうとしたところ、広報のトニー・バーロウから“「マジカル・ミステリー・ツアー」のレコーディングをやるから、その時に来ませんか?”と連絡が入る。

 

星加:私と長谷部さんでEMIスタジオに出向き、「フール・オン・ザ・ヒル」の曲作り最中を取材しました。ポールがリコーダーを吹き、ピアノの周りに全員が集まって話しながら曲が仕上がっていく。スタジオの中のそんな姿を写真に収め取材する──なんて、しかも世界のビートルズですよ。普通は追い出されるところですけど、誰も何も言わないので私たちはかなりの時間写真を撮り、取材をしました。さすがに長谷部さんが“もう撮るところがねぇや”って言ったので退散。4時間近くいたんじゃないかと思います。 翌68年にも、私はその「マジカル・ミステリー・ツアー」の日本での映画上映権(武道館での上映とテレビ放映)の交渉でまた何回かロンドンに足を運びました。その時もポールとジョンに会い、金額面で難航していた交渉もポールが電話を一本入れてくれたおかげで無事交渉成立。日本での上映権を格安で買うことができました。そうそう“アップルの専属第一号だよ”とジョージがドノヴァンを紹介してくれて、リンゴを除く三人には会うことができました。
69年には、ビートルズが間もなく解散するらしい──という話が広がっていて、ミュージック・ライフとしては新しいスターを探さなければと編集会議を開いたんです。そのとき東郷さんが“スコット・ウォーカーがすごくいい”と言うので調べたら、確かにウケそうな感じなんですが、彼がメンバーのウォーカー・ブラザーズはすでに解散していることが分かった。でもソロでもいいからスコットを日本に連れてきて、雑誌を売るためにもプロモーションをしようと、その交渉でまたロンドンに行きました。行ったときは必ずアップルの本社を訪ねて、誰もメンバーがいなければ連絡先を残すようにしているんですけど、戻るとすぐに電話があって、“明日の午後、ビルの屋上で四人が何かやるそうです”とのこと。質問しても要領を得ないので翌日3時頃サヴィルロウのアップル・ビルに行くと、辺りが人で埋め尽くされ近隣のビルの窓や屋上から人が身を乗り出して、スコットランドヤードの警官も出て大混雑していました。上から何かやっている音が聞こえたのでビルに入ったんですけど、“屋上で映画と音を撮っているので関係者以外は入れません”と言われて。仕方ないから後で様子が分かる人に電話して聞こう…とロビーでしばらく待っていたら音が止んで、バタバタバタと階段を降りてくる音が聞こえたんです。その日は雪が降りそうに寒い日で、最初に降りてきたポールはほっぺと鼻の頭を真っ赤にして、呆然と立ってる私を見つけて “HI RUMI !! You live in London(ルミ、君、ロンドンに住んでるの)”。別に返事が欲しいわけじゃなく、ハローと同じような感じで声をかけてくれたんです。ジョンもジョージもよほど早く帰りたかったのか、あっという間に待たせてあった車に飛び乗って、最後に降りて来たリンゴは私に気がついて手を挙げてくれましたけどすぐに帰っていきました。
これが、私がビートルズの四人を見かけた最後でした。1965年に最初に取材をしてからの四年間、この上なく素晴らしい取材ができたのは、やはり半分はカメラマン長谷部さんのお陰です。この素晴らしい写真がなければ、私が取材の話をしても信じてもらえなかったでしょうね。やっぱり長谷部さんが撮った一枚一枚が何よりも私の原稿に大きな力を与えてくれました。それから50年以上経った今も、こうしてビートルズの話を皆さんにしている、しなければならないわけです。でもそれが嬉しくてしょうがないんです、いい時代にいい人たちがいて、我ながらいい取材をよくやったな──と思います。でも長谷部さんの写真集を観る度に、<よく会うことができたな、これがなかったらドーバー海峡の藻屑になってた>と思います(笑)。
今日は駆け足で、私が会ったビートルズとの四年間をお話ししました。もっともっと色んな話があって全部を話すと一晩はかかるんです。それを一時間くらいにまとめてお話しできる機会がまたあるかと思いますので、その時は是非駆けつけてください、お待ちしてます。今日は本当にありがとうございました。

 

この後サイン会が行われた。そして2週間あまりにわたって開かれた『ザ・ビートルズ写真展&公式グッズ・ショップ』も、11月6日大盛況のうちに幕を閉じた。

書籍のご案内

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  • 私が会ったビートルズとロック・スター

    四六判 / 200ページ / ¥ 1,540

    元『ミュージック・ライフ』編集長の星加ルミ子による書き下ろし音楽エッセー本。
    1965年6月15日、ロンドンEMIスタジオでのビートルズ単独会見から始まる、自身の音楽人生を振り返った書き下ろしエンタメ・エッセー。ビートルズやエルヴィス・プレスリーといったスーパースターを支えた人々にスポットを当てつつ、60年代の日本、世界、音楽、社会、文化を俯瞰する。

    【CONTENTS】
    第1章 ビートルズとブライアン・エプスタイン
    スーパースターとその時代背景
    マネージャーとひと口にいうけれど……
    エルヴィスとパーカー大佐
    “タレント”と“アーティスト”
    パーカー大佐とご対面
    素顔のブライアン・エプスタイン
    ブライアン・エプスタインとロバート・スティグウッドの確執
    アンディ・グレイとマイケル・ロジャーズ
    ブライアン・エプスタインとはじめての対面
    ブライアン・エプスタインへの献上品
    エプスタインのタレント・スカウト能力
    『プレイボーイ』誌と社長のヒュー・ヘフナー
    知らない、無知ということは、時として人を大胆にする
    ビートルズを注視するきっかけを作ってくれた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」
    ロック・ミュージックの変容
    ウォーカー・ブラザーズ
    『ミュージック・ライフ』編集部
    “使い上手な人”と“使われ上手な人”
     
    第2章 1960年代という時代に
    60年代の若者達
    若者達の代弁者。ボブ・ディランの登場
    ビートルズとMBE勲章
    星加ルミ子のビートルズ音楽講座
    ビートルズの音楽センスは、どのようにしてつくられたのか
    サミー・デイビスJr.とダニー・ケイ
    5人目のビートル、ジョージ・マーティン
    海外の音楽出版社との楽曲の契約
    みナみカズみ/安井かずみ
    カーナビーツと「オーケイ!」
    音楽著作権バイヤーとしての手痛い出来事
    伝説の音楽番組『ビート・ポップス』
    訳詞を手がける
     
    第3章 私の愛聴盤
    私の愛聴盤
    ポール・サイモン
    ロッド・スチュワート
    エリック・クラプトン
    私が胸をときめかせたミュージシャン、ベスト3
    そしてビートルズ
    デイヴ・マシューズ・バンド
     
    おまけの章
    エピソード 1
    エピソード 2
    エピソード 3
    エピソード 4

    エピソード ランダム
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    ロン・ウッド
    ドノヴァン
    ピーター&ゴードン
    マリアンヌ・フェイスフル
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