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泉麻人著『僕とニュー・ミュージックの時代 [青春のJ盤アワー]』発売記念トークイベントが、著者を迎え鈴木啓之(アーカイヴァー)氏の進行により2月5日(金)dues新宿にて行われた。当日はその場で泉氏愛聴のアナログ盤をかけながら70~80年代の空気に触れる、ゆったりとしたトークが繰り広げられた。

高校の頃女の子にフラれたりしたとき頭の中でかけながら池袋裏辺りを歩いたものですよ。

泉麻人(以下泉):今日は『僕とニュー・ミュージックの時代 [青春のJ盤アワー]』に基づきまして、70年代のニュー・ミュージックと呼ばれるジャンルが盛り上がっていた時代のお話を、レコードをかけながらしていきたいと思います。僕は1956年生まれで、本の中にも書いてありますけど70年代初めが中学生で、学生時代がほぼ70年代と被っている世代です。正確に言いますと60年代の終わりにグループサウンズ(GS)というロック歌謡のブームがあって、それが飽きられた頃オーバーラップするようにフォークがブームになる。この頃のフォークは70年安保とかもあって、学生運動に連動した形での反体制フォークがじわじわと広がっていったんですね。
鈴木啓之(以下鈴木):音楽と社会の動きの結びつきが深かった時代ですね。
泉:68~69年辺りが学生運動は盛んな頃で、69年の1月に東大の安田講堂に学生が立てこもって機動隊が放水して…というニュースがありました。その年の春に僕は中学生になるんですけど、その頃大きな力を持っていたのがラジオの深夜放送。中学に入って最初のテストが5月頃で、その時に口コミで“ラジオの夜11時台以降の番組が面白い”というのが伝わってきて聞き始めたんです。深夜1時からニッポン放送の「オールナイトニッポン」、TBSラジオの「パックインミュージック」、12時半から文化放送の「セイ!ヤング」があって、これが深夜の時間帯なんですけど、そこに壁があるんです。“こんなに起きてちゃいけないんじゃないか”って子供の感覚で。最初は12時台から10分刻みくらいの番組を聞き始めたんですけど、これが中高生の人生相談とか、思春期に性に目覚め始めた層をターゲットにしたような番組で。1時からの放送はリスナーからの投稿ハガキとかが中心なんですけど、いろんなポップスやロックの洋楽も聞けて。そこでテレビの音楽番組には出てこないアングラ・フォークと呼ばれていた岡林信康とか高田渡とかもかかって、その中に吉田拓郎もいて、「マークⅡ」という曲がよく流れてました。その辺からフォーク系の曲にも興味を持つようになったんです。新宿の紀伊国屋のエレベーターを上がったところにあったレコード屋で…。
鈴木:帝都無線ですね。
泉:そうそう。その頃は新宿という場所柄、URC、エレック(それぞれフォークのインディー・レーベル)のコーナーがあったんです。ラジオで聞いた岡林信康とかプロテストがかったレコードを探して。で、このニューミュージックって呼ばれ出したのはいつ頃かなと考えてたんですけど。
鈴木:ユーミン辺りかなという気はしますけど…。今回の本も連載のときは「青春のJ盤アワー」という題で、ニューミュージックっていう言葉を使うのに抵抗があったと書いてらっしゃいます。
泉:ちょっと恥ずかしかったんだよね。元々ロッキングオンから出ている「SIGHT」という雑誌で6~7年連載していたものをベースにして。そのときはニューミュージックって言葉を使うのも照れくさいというのがあったけど、結果的に自分が聞いていたアルバムを集めてみるとそのジャンルが多かったと後からわかったので、書籍化するときにそのタイトルをつけました。
鈴木:一つのジャンルとして熟成して語れるようになったかな…と。
泉:「月刊てりとりぃ」ってディスクユニオンにも置いてもらっているフリーペーパーに「東京1972」というコラムを書いていて、そこでニューミュージック的な事を考えたんです。ユーミンのデビューはその年の7月ですけど、最初は一般的には知られてなかったんですよ。

ここで泉氏は、さまざまなテレビやラジオの音楽番組のチャートを自分なりに集計して作ったオリジナルのヒットチャートをつけていたという当時のノートを取り出し、そのチャートに沿って音源をかけながら話が進められた。

bokutonewmusic_01鈴木:中学生というのは一番こういったことに力を入れられる年代ですよね。
泉:72年の1月では1位「水色の恋」天地真理、2位「君をのせて」沢田研二、3位「愛する人はひとり」尾崎紀世彦となってます。それで、この年の2月に連合赤軍が人質を楯に立てこもった “あさま山荘事件”が起きるんです。その最中の2月26日のチャートに初登場したのが「結婚しようよ」吉田拓郎。?僕の髪が~肩までのびて~というラブソングで、その後4月1日から3週連続1位に輝き、メガヒットを記録するんですけど、この曲がニューミュージックの夜明けのテーマ的なものだと、先ほどのコラムを書きながら思いました。これは本にはまだ書いていなかったことですけど。
鈴木:最新の泉さんのお考えですね。
泉:同じ軽井沢の反対側の教会で吉田拓郎は6月に四角佳子さんと本当に結婚するんです。これがフォークが硬派から軟派へと切り替わるという面でもすごい象徴的な曲だなと思って。
鈴木:反体制の象徴だったフォークが、そういう大衆音楽に歩み寄って来たところがニューミュージックの原点だと。
泉:この年の拓郎の位置というのはその後のニューミュージックの時代の大本のような感じなんです。売れてしまったのでバランスをとるようにテレビの歌番組には出ないと宣言し、ただフジフィルムの「Have A Nice Day」とかCMには積極的に使わせた。これはその後の山下達郎とかの仕事観にもつながっているようなところがある。で、これだけ話をして今日は拓郎のレコードを持って来てない(笑)。
鈴木:そうなんです、心配になってました(笑)。
泉:この本の1回目にはっぴいえんどの話を書いてるんですけど、高校に入って友人の勧めで“ゆでめん”のジャケットでお馴染みの『はっぴいえんど』を聞いたんです。
鈴木:ではそのアルバムから。
泉:「春よ来い」を。

「春よ来い」はっぴいえんど『はっぴいえんど』

泉:このアルバムを持ってきたのは、裏ジャケットも見ていただきたくて。今はゴールデン街の遊歩道になっている当時の都電の軌道の所で、松本隆さんがビールのタテ看板と一緒に写っている写真があるんです。このネタ元は寺山修司の映画「書を捨てよ町へ出よう」。そこに同じような看板が出てくるので気になる方はそちらも。
鈴木:見て比べてみると面白いかもしれないですね。
泉:僕がはっぴいえんどをこのアルバムより先に聞いていたのがビクターSFシリーズの『‘71全日本フォーク・ジャンボリー・ライヴ第一集』。
鈴木:有名なのは吉田拓郎「人間なんて」。実際は90分くらいやったっていう話らしいですが。
泉:今回は語りから入ってきて、それも面白い加川良の「教訓Ⅰ」を。当時拓郎と双璧のライヴを盛り上げる人でした。

「教訓Ⅰ」加川良『‘71全日本フォーク・ジャンボリー・ライヴ第一集』

bokutonewmusic_02泉:この歌は最近で言うと、集団自衛権等の憲法改正反対時のSEALDsの人達の行動とか、ああいう景色がオーバーラップしますね。このライヴの中にはレコード・デビュー前のGAROも入っていて、これで最初に聞いたと思うんです。では「たんぽぽ」という曲を。

「たんぽぽ」GARO『‘71全日本フォーク・ジャンボリー・ライヴ第一集』

泉:ニール・ヤングもいたCSN&Yを日本風にやっていたのがGARO。
鈴木:実際当時はどんな感じで聞かれたんですか?
泉:GAROの場合はメロディがすごく美しくて。その当時は意識してなかったんですけどアルファ・レコードを設立した村井邦彦さんが関係してくるんですよね。村井さんはユーミンにも関わってくるし。
鈴木:村井さんの存在は本当に大きいですね。
泉:GAROはサウンド的にもニューミュージックという感じのものですね。
鈴木:洗練された音楽。
泉:洋楽をそのまま持ってきた感じ。メッセージとかではなく叙情の風景を歌ったもの。こういった昔のライヴ盤はその当時の景色を想像する楽しみがあるね。では今日持って来た中でもレア盤な72年の柳田ヒロのサンズ・オブ・サンを。歌詞はほぼ松本隆さん。はっぴいえんど解散後ですね。ヴォーカルはMAO, キーボードが柳田ヒロさん。

「雪あかり」サンズ・オブ・サン(柳田ヒロ)『海賊キッドの冒険』
「郊外電車」サンズ・オブ・サン(柳田ヒロ)『海賊キッドの冒険』

泉:この「郊外電車」はオールナイトニッポンで亀渕昭信さんがよくかけてらして、それで僕は知ったと思うんです。歌詞にある「珈琲豆とケーキを買いに行く」というのも武蔵野っぽいんですよ、吉祥寺近辺の。マンガの「ガロ」でも安西水丸さんのこういう雰囲気のものがあったかな。
鈴木:松本隆さんは都会の風景を描く方で、こういう郊外の世界はちょっと意外な感じがしますけど。
泉:昭和初期の流行語で郊外電車というのがあったんですよ、その頃の東横線とか。松本さんもそういうイメージなんじゃないですか。では、もう少し後ろの時代に行って、歌謡曲側からニューミュージックへの歩み寄りということでいしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリーの。
鈴木:名盤として名高い『アワー・コネクション』を。
泉:歌詞は全部橋本淳さんで、プロデュースもされてます。演奏はティン・パン・アレイで、コーラスに山下達郎、吉田美奈子という豪華なメンバー。ではちょっと歌謡曲っぽいけれど「六本木ららばい」を聞きましょうか。橋本淳さん的な街、夜景が見えます。
「六本木ららばい」いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー『アワー・コネクション』
鈴木:この本の中で、レコードはどこで買ったか覚えてるって書いてらっしゃいますけど
泉:実家の傍に目白堂という素晴らしいレコード屋さんがあったんですよ。70年代には目白駅のコマース目白という商業施設にも支店を出していて、今は取り壊されて新しい駅ビルに変わりましたけど。そこか本店かどちらかで買ったんです。本店は洋館風で応接間風な試聴室がありました。
鈴木:すごい贅沢ですね。
泉:赤塚不二夫さんの自叙伝でも、石ノ森章太郎さんとその店によく行ったって書いてありました。女店主がすごく美人でその人を目当てに(笑)、僕が行ってた頃はその娘さんが時々手伝いに来てましたね。『GARO 3』はその娘さんから買ってすごくドキドキしたのを覚えてます(笑)。その支店で最初に買ったのはこのシュガー・ベイブ『SONGS』、愛奴も一緒に買いました。大瀧さんのラジオを聞き始めてた頃で、そこでシュガー・ベイブは聞いたかな。

「SHOW」シュガー・ベイブ『SONGS』

泉:70年代の後半になると、歌謡界とロック界の間の壁がだんだん壊れて融合して行くんです。75年でこの『SONGS』を聞いたときは、日本の邦楽でこういうアルバムはなかったから、とても新鮮で驚きました。
鈴木:その頃にこのアルバムを買っちゃうというのは、すごい音楽的に感度が高い…。
泉:僕は下敷きとして洋楽のカバー・ポップスがあったので。幼稚園の頃からわが家の大人と混じって「ザ・ヒット・パレード」とか見てたから、アメリカン・ポップスの和訳版には馴染んでたんですよ。『SONGS』はわりとそういうものに近い所を感じたし。
鈴木:まさに、その大瀧さんにしろ、山下達郎さんもそういうものを享受して表現されてるわけですよね。
泉:その原点として今日は、漣健児さんが訳詞をされた一連のカバー・ポップスを。
鈴木:漣健児こと草野昌一(シンコーミュージック・エンタテイメント前会長)さんに敬意を表して。
泉:ダニー飯田とパラダイス・キングの「シェリー」を。

「シェリー」ダニー飯田とパラダイス・キング『ポップス・ヒットVOL2』

泉:こういう女の子を誘うだけの歌というのは60年代初めの当時なかったですからね。こういうテーマの曲が出来上がるのがその後のユーミン、ニューミュージックで。
鈴木:経済的にもある程度落ち着かないとこういう世界はできないですから。
泉:もちろんそれはあるし。このときはそれは憧れで。70年代後半になると、これが日本のシチュエイションに重ねられるようになるんです。
鈴木:実際の生活レベルもようやく追いついて。
泉:自由が丘辺りに重ねられる風景が出来上がったとも言えます。では「傷だらけの天使」をかけたくてサントラ盤を持って来たので最後に一曲。テレビ・ドラマの音楽もこの井上堯之、大野克夫の元スパイダースの人達が入り込んで変わっていくんですよね。じゃ「天使の憂鬱」を。

「天使の憂鬱」井上堯之バンド『傷だらけの天使/太陽にほえろ!』

泉:高校の頃女の子にフラれたり、麻雀で負けたりしたとき頭の中でかけながら池袋裏辺りを歩いたものですよ。
鈴木:その頃まだウォークマンとかなくて。頭の中のBGMで。
泉:そんな曲でお開きということで。
鈴木:ありがとうございました。

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「僕とニュー・ミュージックの時代[青春のJ盤アワー]」のご案内

僕とニュー・ミュージックの時代[青春のJ盤アワー]

四六判/168ページ/本体 1,400+税

東京生まれ・東京育ちのコラムニストである著者が、自身の体験とその記憶を手がかりに、邦楽名盤とその時代を紐解く音楽エッセイ集。
『SIGHT』に連載されたコラム「青春のJ盤アワー」全回を、今回単行本用に加筆。旧来の「歌謡曲」「日本語のポップス/ロック」が、洗練を重ねて「ニュー・ミュージック」へと移り変わっていく時代に、ちょうど青年期を過ごした著者が、当時の風俗や事象を織り交ぜながら、独自の視点で名盤を語っていきます。
巻末にはボーナス・トラックとして、歌謡曲のスペシャリストである鈴木啓之を聞き手にした著者の長編インタビューを掲載。薄れ行く時代の記憶がカラフルによみがえる、耳と心を刺激する一冊です。

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