『シャーロック・ホームズ トリビアの舞踏会』の発刊を記念して、日本を代表するシャーロッキアンで、世界で最も権威あるホームズ研究団体(ベイカー・ストリート・イレギュラーズ、米国・BSI)二人目の日本人会員である著者、田中喜芳さんによるトーク&サイン会が7月2日夜、新宿・紀伊國屋書店本店で行われた。

 

日本を代表するシャーロッキアン田中喜芳が語る「ホームズ物語」の魅力と作者コナン・ドイル

“これから明日の朝までシャーロック・ホームズの話をさせていただきたいと思います(笑)”。と第一声から和やかなムードで始まったこのイベント、“せっかくお越しいただいたのですから今日は皆さんに貴重な当時の雑誌や本なども見ていただきながら、ホームズのお話をお聞きいただこうと思います”と、田中さんは早々にシャーロック・ホームズに変身(インバネスコートにディアストーカー〔鹿撃帽〕、手にはキャラバッシュパイプと拡大鏡という恰好)。そしてトークが始まった。

 ちなみにホームズのパイプといえば、今では、持つ所が曲がったものが定番になっているが、「ホームズ物語」が書かれた当時は真っ直ぐなものだったとのこと。ボーア戦争(第二次1899年〜1905年)の後イギリスに入ってきたものであり、有名になったのはアメリカの舞台俳優ウィリアム・ジレットが舞台で使ってからホームズのイメージとして定着した──というトリビアが。

 

 今、世界にシャーロック・ホームズのファンがどのくらいいるのか正式な数はわかりません。ただ、シャーロック・ホームズの研究団体は世界に600以上あります。日本にも1977年に日本シャーロック・ホームズ・クラブ(JSHC)が創立されました。中でも一番旧いのがアメリカのベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)で、1934年に創立されました。本家英国のロンドン・シャーロック・ホームズ会(以下「ロンドン・ホームズ会」と表記)の方が少し新しくて1952年。BSIは申し込めば誰でも入れるという団体ではなくて、あちらから指名をされて初めて会員になれます。ロンドン・ホームズ会は、最近は会員数が多くなったので絞ってはいますが基本的に申し込めば入れる会です。

 

“すみません、脱いでいいですか、暑いので(笑)”と、ここでインバネスコートと鹿撃帽を取った田中さん。なお、コートは日本のイギリス専門のテイラーに頼んで作ってもらった特注品とのこと。このあと、続々と貴重な雑誌、書籍が披露された。

 ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)が年4回発行している「ベイカー・ストリート・ジャーナル」最新号と1946年に出た創刊号。ロンドン・シャーロック・ホームズ会が年2回出している会報「シャーロック・ホームズ・ジャーナル」の今日届いたという最新号と1952年の創刊号。アメリカの女性だけのホームズ団体「アドベンチュレス・オブ・シャーロック・ホームズ」が出している会報「サーペンタイン・ミューズ」、「BSI」の認定証の写真など…

 

 この、ベイカー・ストリート・イレギュラ−ズ(BSI)の認定証は、「BSIの一員と認定されたという証で、本物の1シリング硬貨が貼ってあります。物語の中でホームズの手足となって働いた浮浪児の少年たちにホームズが「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」というチーム名を付け、彼らに与えたお駄賃です。ですからこの認定証はその一員になれたという意味があるので、1シリングはホームズから貰ったもの──というわけです。最近はこの本物の1シリング硬貨を見つけるのが難しくなったと聞いています。

 といったところで、本日お話するメニューですが、一つは「ホームズ物語」とは何か、そして、もう一つは作者のコナン・ドイルはどんな人物だったのか、この二つになります。「ホームズ物語」というのは、そういった題の本があるわけではなくて、我われシャーロッキアン(ホームズの熱狂的なファンまたは研究者)がドイルが書いた60編(短編56編、長編4編)のホームズ作品を総称して便宜的に「ホームズ物語」と呼んでいるのです。その中で最初に出されたのが《緋色の習作》。《緋色の研究》という邦題もあります。188711月末発行の「ビートンのクリスマス・アニュアル」(ペーパーバックの雑誌)に掲載されて、ホームズとワトスンは世の中にデビューしました。当時ドイルはポーツマスで開業医を営んでいて、まだ専業作家ではなかったのです。原稿は、この前年に書き上がっていたのですが、色んな出版社に送ってもなかなか採用されませんでした。この時「ビートンのクリスマス・アニュアル」を出しているワード・ロック社が、掲載を一年間待つのと、著作権を25ポンドで買い取るのをドイルが承知するなら──という条件を出し、ドイルはこれを承諾したのです。当時の1ポンドは今の価値でいくらになるのか…これはなかなか難しいのですが、シャーロッキアンの間では1ポンド=約24,000円ということになっています。そうすると25ポンドは60万円なので、ドイルは《緋色の習作》を著作権ごとワード・ロック社に60万円で売ってしまったことになります。よって、以降はこの作品がいくら売れても、ドイルの元には、1ペニーも入ってこなかったのです。ただ、この作品でホームズがすぐ爆発的人気を得たわけではありません。誰からも見向きもされなかった、まったく評判にならなかった──と伝えられていますが、イギリスのシャーロッキアンが調べたところによると、英国各地の新聞や雑誌の中には称賛する書評が出ていて、たとえば、当時ドイルが住んでいたポーツマス市の雑誌には「『ビートンのクリスマス・アニュアル』の目玉作品は、コナン・ドイル博士の《緋色の習作》である。わが町の尊敬すべき住民は個性的な雰囲気を有しており、必ずや成功するであろう」と書かれています。また、遥か遠くのスコットランドのグラスゴーの新聞も「科学的な探偵、シャーロック・ホームズの何と素晴らしいことか」という書評も出ていたということです。この‘科学的な探偵’という讃辞はドイルにとって一番うれしいものだったのではないかと思います。というのは、それまでの小説では、探偵が急に閃いて犯人を当ててしまう──などというものが多かったからです。この作品では、読者に対して或る程度フェアに手がかりを提供しながら探偵が推理と行動力を働かせて犯人逮捕にいたる──という、これはドイルが生み出した一つの手法だと思います。

 一夜にして爆発的人気を博したホームズではないのですが、この作品は米国ではそれなりの評判を得ました。物語の主要な部分の舞台が米国だったからです。米国のリピンコット社という雑誌社がロンドンでも「リピンコット・マガジン」を発行しようとストッダートという代理人をロンドンに派遣したのです。そこで彼が声を掛けたのがコナン・ドイルとオスカー・ワイルドでした。こうして1889830日、ドイルとワイルド、ストッダートが会って話をしたときに、二人には「リピンコット・マガジン」に1作品を書くことが決まりました。そしてドイルが書いたのが《四つのサイン》、ワイルドが書いたのが「ドリアン・グレイの肖像」でした。このときには原稿料も100ポンド(約240万円)に跳ね上がっていました。

 

ここでその「リピンコット・マガジン」の本物が登場、完全な形は日本にはこの一冊だけ、世界でも二十冊は現存しないだろうという超稀少雑誌。そしてこの雑誌が田中さんの手元に来た由来が披露された。

 

 米国のBSIの会合に行ったとき、隣に座ったのがオースティン博士でした。私は彼が「リピンコット・マガジン」を所有しているのを知っていたのです。私の方が博士よりずっと若かったこともあって、“もしあなたが亡くなったら、これを私に譲ってくれるように奥さんに言っておいてください”って話したのですね。そうしたら34年経って奥様から手紙が来たのです。〈主人が亡くなって、遺品一式をサザビーズのオークションに出すけれども、主人からは話を聞いている。もしKiyoshiが買うのであれば、優先的に譲ってあげる〉と、そういう手紙が来ました。もうすっかり忘れていたのですけど、奥様の気持ちが嬉しくてこれを買いました。これにタイヤを付けてガソリンを入れれば走る──くらいのお値段(笑)。でも私は今、これが自分の手元にあるのは預かっているだけだと思っています。これを、きちんとこれを散逸させないよう次の世代に伝えていかなければいけないと思っています。ですから今度BSIの会合に行って、隣に若い人が座って、“もしあなたが死んだら……”って言われるかも知れません、ま、そのときはそのときで考えます(笑)。

 こうして二作目の《四つのサイン》が出ましたが、これでもまだホームズは人気を得たわけではないのです。1891年1月にロンドンで創刊された「ストランド・マガジン」に《ボヘミアの醜聞》はじめ、短編シリーズが連載されるようになって、ホームズ・シリーズは一躍、爆発的人気を得るようになるのです。

 

ここでは「ストランド・マガジン」の1891年9月号と1926年11月号が登場。ロンドンのストランド街の同じ場所からの風景が描かれた表紙は、1891年版は単色で馬車が描かれ、1926年版ではカラーで車が描かれている。表紙を並べるとストランド街の変遷がこの雑誌だけで分かるというもの。同誌は1950年3月号、通算711号で休刊になった。

 

 コナン・ドイルが「ストランド・マガジン」に連載を持てたのは出版代理人(文芸エージェント)の力によるのですが、それは後ほどお話するとしまして、今この雑誌がこうして残っているのは、もちろん「シャーロック・ホームズ・シリーズ」を連載したというのが一番大きな理由です。実はそれだけではなくて、ホームズを別にしてもある画期的なことを始めた雑誌なんです。それは何かというと‘どのページを開いてもどこかに必ず写真か挿絵が載っている’という、今日では当たり前のスタイルを初めてつくった雑誌なのです。今の雑誌で見開き両ページが活字だけで埋まっている──なんていう雑誌はないですよね、その見栄えの良さの元を作ったのが「ストランド・マガジン」で、当時の発行部数は30万部でした。「ホームズ・シリーズ」の人気がでると、さらに50万部以上に発行部数をのばしたと言われています。「ストランド・マガジン」はジョージ・ニューンズという人が一般大衆向けに作った雑誌なのですが、彼は元々「Tit-Bits(意/ちょっとした美味しいもの)」という、それまで色々な所に貼ってあった催し物の情報を一つにまとめた情報誌(以前紙媒体としてあった「ぴあ」のような雑誌)で大当たりを取ったアイデアマンでした。その彼が後に「ストランド・マガジン」を発行したのです。また、これが実にイギリス人らしいユーモアの精神なのですが、この1891年の「ストランド・マガジン」の表紙に描かれている新聞売りの男性が持っている新聞の所に「Tit-Bits」という文字が入っているんです──先日拡大鏡で見ていて発見しました(笑)。

 ドイルはホームズ・シリーズで一躍流行作家になったわけですけれど、この頃、ドイルの奥様のルイーザは肺結核に罹ってしまい──当時、肺結核は不治の病と言われ、空気のよい所での転地療養くらいしか治療法がなかったのです。そこでドイルは奥様を連れてスイスのダボスに行ったのですが、その途中で見たのがライヘンバッハの滝だったというわけです。本来ドイルがなりたかったのは歴史小説作家で、それは子どもの頃からの夢でした。それで、ホームズを終わりにすれば自分はいよいよ歴史小説を書けると思い、189312月に発表した《最後の事件》で、ホームズを宿敵モリアーティ教授とライヘンバッハの滝で闘わせて殺してしまったのです。二人は滝に落ちたことになっているのですが、死体が見つかったという記述はありません。ただ〈渦巻く水と沸き立つ泡のあの恐ろしい大釜の深くに(中略)〔二人は〕永遠に横たわるだろう〉という記述があるだけなのです。もしかするとドイルの深層心理には無意識のうちに〈ホームズを本当に殺してしまってもいいのだろうか〉という気持ちがあったようにも思えます。

 これでようやく歴史小説を書ける──と思ったドイルですが読者が黙っていなかったのです。ジョージ・ニューンズ社には〈ホームズをなぜ殺したのだ!? 〉という抗議の手紙が殺到し、街には腕に喪章を巻いて歩く人さえ現れたといわれています。そういった〈シャーロック・ホームズを復活させてくれ!〉という読者の思いが、やがてダボスのドイルのところまで届くようになり──といえば聞こえはいいのですが、法外な原稿料に心を動かされたのか(笑)、数年後ドイルが書いたのが《バスカヴィル家の犬》でした。ところが、この《バスカヴィル家の犬》の事件発生年月日は1888年の925日〜1020日で、《最後の事件》でホームズが宿敵モリアーティ教授とライヘンバッハの滝で戦ったのが189154日。ですから《バスカヴィル家の犬》事件は、《最後の事件》でホームズが死ぬ前の事件ということになっています。読者にしてみれば、またホームズの物語を読めたのは嬉しいけれど彼がロンドンに生還したわけではない─、だから本当にホームズをロンドンに生還させて欲しいという声がまた高まったのでした。それでようやくドイルが書いたのが1903年の《空き家の冒険》でした。この事件はライヘンバッハ滝での決闘から3年後の18944月に起きています。こうしてドイルはホームズをロンドンに復活させるのですが、今、申し上げたようにドイルの深層心理の中には〈こんな金の卵を本当に殺してしまっていいのか…〉という思いがあったのかもしれません、だから中途半端な殺し方をしたのかな…と思います。死んだと思ったホームズが目の前に現れてびっくりするワトスンに、ホームズは、〈自分は日本のBARITSUを知っていたからモリアーティだけを滝壺に落として自分は落ちなかった〉と説明しています。このBARITSUとは一体何か?ということが日本のシャーロッキアンの間で長年議論されてきました。BARITSU(バリツ)はBAJYUTSU(馬術)じゃないか?とかBUJYUTSU(武術)ではないか?とか様々な説があったのですが、近年では、エドワード・ウィリアム・バートン=ライトという英国人の鉱山技師が日本に滞在していた時、短期間ながら柔道を経験し、後に彼が英国に帰国して、バートン流の護身術(BARTITSU バーティッツ)と名付けて広めたのをタイムズ紙が取材した際、記者がBARITSUと間違えて書いてしまったのです。その新聞記事を見たドイルが、作品に日本の格闘技ということでBARITSUという言葉を使ったのではないかというのが最新の説です。

 以後、ドイルは二度とホームズを殺すことなく1927年まで約40年間に渡ってホームズ・シリーズを書き続けました。日本では大佛次郎さんが「鞍馬天狗シリーズ」で同様に、一人の主人公を40年以上(19241965年)に亘り書き続けています。恰好だけで誰かと分かるのがホームズであり、鞍馬天狗でもあります。そういった一人の主人公の作品を40年も書き続けると、逆に作家が主人公のイメージに縛られることが生じるようです。そうなると作家は物語を終えようとして主人公を殺してしまう。大佛さんも鞍馬天狗を途中で殺してしまい、不自然なかたちで復活させています。そんなところもドイルは大佛次郎と共通点があるのではないかと思います。

 最初に、コナン・ドイルが作家になった経緯は後ほど…と申し上げましたのでここでお話します。ドイルは元々ポーツマツ郊外のサウスシーという所で1882年から開業医をしておりました。1890年コッホがツベルクリンを発見して結核に効く薬だと発表したのを聞いて、ドイルは専門家でもないのにコッホに会いに行ったんです。もちろんコッホには会えなかったのですけれど、帰国してからデイリーテレグラフ紙に〈ツベルクリンは結核に効く薬ではなくて、結核に罹っているかどうかを判定する薬だ〉と投稿していて、医学者としてもドイルは一流だったのではないかと思えます。189012月には、“自分は眼科医になる”といってサウスシーの診療所を閉め、妻と共にオーストリアのウィーンに旅立ってしまいます。ドイツ語がそんなに堪能ではない上に専門的な医学用語を使える能力もなかったのでわずか三ヶ月でロンドンに帰国してしまいます。189141日からロンドンで眼科医を開業するのですが、ドイルは、そもそも眼科医などヤル気がなかったのではないか──と思えるんです。自伝『わが思い出と冒険』にも〈毎朝モンタギュー・プレイスの下宿から歩いて通い、診療所に10時から3時か4時まで座っていたが、のどけさを乱すベルは一向にならなかった。黙想と仕事にこんな良い場所があるだろうか? ここは理想的だ。診療の方が全くの不成功であるかぎり、文学的前途を開拓するチャンスはいくらでもあるというものだ〉と書いています。患者が来ないからシャーロック・ホームズ作品をまた書き始めたといわんばかりの書き方です。でも最近の研究で、〈待てど暮らせど患者は来なかった〉というのはちょっと怪しいのではないかと言われています。というのは、アレグザンダー・P・ワットというドイルの出版代理人(文芸エージェント)が、1891331日付けでドイルに宛てた手紙に、〈作品を受け取りました。本作を「ストランド・マガジン」に持って行きます〉と書いてあるんです。18917月に「ストランド・マガジン」で発表される短編《ボヘミアの醜聞》が、すでに3月の段階で仕上がっていることが分かります。おそらく、189012月に眼科医宣言をしてオーストリアのウィーンに向かったドイルは、ポーツマス市を発つ前に方々で送別会をやってもらい、もしかすると餞別まで貰ってしまっていたんではないかと思います。だから作家としてやっていく決意で作品を書くにしても、どうしても眼科医院は開かざるを得なかった、たとえ形式的にでも開業するしかなかったのでしょう。よって自伝では〈待てど暮らせどベルは一向にならなかった〉という抽象的な書き方をしたのだと思います。

 実はホームズにはモデルがいて、ドイルがエジンバラ大学医学部の学生だったときの恩師、外科医のジョウゼフ・ベル先生がそうだとされています。先生は患者が診察室に入って来ると、その話し方とか服装とか仕草を見て、どこに住んでいてどんな仕事をしている人かを言い当てたそうです。それを見ていたドイルがホームズのモデルとして使ったのですね。

 「ホームズ物語」の魅力はたくさんあるのですが、ホームズが事件を解決するに当たって色々示唆に富んだ言葉を言っているのもその一つです。一例をあげると〈君は見るだけで観察をしない〉という台詞がそうです。どんな場面で言ったかというと、ホームズとワトスンはベイカー街221B,ハドソン夫人のフラット(今の賃貸マンションのイメージ)の二階に下宿をしていて毎日階段を上がり下りしています。ある日ホームズがワトスンに“君はここの階段が何段あるか知っているか?”って訊くのですが、ワトスンは答えられない。その時に〈君は見るだけで観察をしない〉と言うんです。これはドイルの恩師のベル先生がしょっちゅう学生たちに言っていた言葉でした。今でこそ医学の発達で検査には様々な医療機器を使いますが、当時はそういった物はありませんでした。それで、医者は患者と健康な人とを見比べてその違いを発見するしかなかったのです。だから“見るだけでは駄目だ、観察をしないと…”と言っていたのです。それをドイルは覚えていて、ホームズの言葉に使ったというわけです。

 「ホームズ物語」の魅力は何かと尋ねれば、ここにいらっしゃる皆さんはそれぞれ違う魅力を挙げられると思うんですが、多くの人は〈その卓越した推理力と行動力で情報を収集し、分析し犯人を捕まえる〉というところかと思います。欧米ではホームズとワトスンの〈男の友情〉ということも言われています。ただ、犯人が名探偵の推理で捕まる──というだけでは100年以上、100カ国以上の言葉で読み継がれることはないと思うのです。「ホームズ物語」には1,000人以上の人物が登場します、ホームズの手足となって働いた浮浪児からボヘミアの国王まで、彼ら1063人の様々な生き方の中に共感するものがある──というのも大きな魅力の一つだろうと思います。ちなみに、この1063人というのは、私が数えたもので、人によっては数え方も違うでしょうから、この人数には幅があると思います。

 もう一つ、忘れてはならないのが客観的な要素です。「ホームズ物語」はその大半の舞台が1880年代から1890年代となっています。この時代はヴィクトリア朝の末期。ヴィクトリア朝というのは1837年から1901年までの64年間、ちょうど昭和と同じくらいの長さです。日本でも昭和の初めと終わりでは社会の様子が大きく違うように、イギリスでもヴィクトリア朝の初めと終わりとでは人々の生活も大きく変わりました。初期は産業革命以降の産業資本家の伸張、中期になると自由貿易による絶頂期を迎えるのですが、後期はアメリカやドイツの工業力に遅れをとるようになってしまいます。1873年以降、イギリスは不況に陥り1896年まで約20年間不況が続きます。「ホームズ物語」はその不況時代の後半から、やがて回復していく時代が舞台になっています。ヴィクトリア朝末期には労働者階級の生活もずいぶん良くなり、そうなると人々が次に求めるのは娯楽です。教育環境も整備され識字率も高くなりました。さらに雑誌の値段も安くなったため、「ホームズ物語」を読む人も増えたのだと思います。ドイルの短編《ボヘミアの醜聞》が掲載された当時、約30万部発行されていた「ストランド・マガジン」に作品が載るということは、はじめからそれだけ多くの人に読まれることになります。さらに、当時の英国では今よりも鉄道網が広がっていたくらいですから、全国に一気に広まっていくという次第です。ドイルはもの凄いチャンスをモノにしたわけです。

 ヴィクトリア朝時代には色々な言葉も生まれました。現在でも使われている言葉があります。一つご紹介しておきますと〈スター〉という言葉がそうです。今でも超売れっ子や華々しい活躍をしている人、主に芸能人を指しますが、これはヴィクトリア朝時代が起源なのです。労働者階級の生活も良くなり、一日の仕事を終えた後、飲んだり食べたりしながら舞台の芸を見る──というイギリス発祥の大衆芸能、ミュージック・ホールという文化が1850年代に生まれました。ただの歌からパントマイム、朗読、オペレッタなど様々なジャンルで、出演する芸人もピンからキリまでいて、下手な芸人が出ると観客は座布団を投げるなどブーイングをしたそうです。で、投げられた芸人は翌日からは舞台に上がれない。そうやって淘汰されて残った芸人は、本当に芸の上手な人、人気のある人だけで、彼らこそ毎晩舞台に立てるというわけです。つまり、毎夜出てくるのは星、それで人気のある芸人を〈スター〉と呼ぶようになったのです。

 

この後、紙幅の関係から『シャーロック・ホームズ トリビアの舞踏会』には掲載できなかった、ホームズの事件に関係した当時の新聞などの実物が披露された。本書(p.207「火事」)に登場する1880年9月4日付「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(A3判ほどの大きさ)に掲載されたホワイト・チャペルの火事の挿絵(ホワイト・チャペルは切り裂きジャック事件で有名)。同じく(p.225 「紅茶」に登場する)「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」1855年2月10日付に掲載の‘船首が広く、重くて囚人移送に転用された船と同型の帆船’の挿絵。また、当時はまだ珍しかった七面鳥の挿絵(同紙、1888年12月22日付紙面に掲載)、本書(24「手紙」の項目に関連して)、当時の「手紙」の実物(貼られている切手は1841年発行のペニー・レッド、目打ちなし、国名なし、消印は1846年9月7日)など著者所蔵の貴重品の実物が次々披露された。

 

 最後に「ホームズ物語」の中に出てくるトリックのうち、これは本当かな?と思われるものを一部ご紹介したいと思います。ホームズは音楽会によく足を運んだとされています。18918月発表の《赤毛組合》(事件発生は188710)ではワトスンに“今日の午後サラサーテがセント・ジェームス・ホールで演奏するよ”と言っています。また1903年夏に起きた事件《マザリンの宝石》では、ホームズは自分で演奏するわけではなく他の部屋で「ホフマンの舟歌」のレコードをかけて、あたかも自分がその部屋で演奏しているかのように犯人に思わせて、犯人の持っている‘マザリンの宝石’を手に入れるというトリックを使っています。当時のレコード演奏で本当に犯人を騙せるくらい音質が良かったのかどうか──、ここで皆さんにお聴きいただきたいと思います。これは1904年に当時61歳のサラサーテが演奏していた音源です。(カセットレコーダーからノイズ混じりの演奏で「ツィゴイネルワイゼン」が聞こえる、SP盤の音質)お聞きになって分かるように、かなりノイズが入っています。これを聞いて犯人は本当にホームズがそこで弾いていると思ったのでしょうか? ま、コナン・ドイルも、自分が書いた作品が100年近く経ってからああでもないこうでもないと言われるとは想像もしなかったと思うのですが(笑)。沢山あるトリックの中には、“実際はどうかなぁ?”と思えるのもあります。《赤毛組合》では、犯人が質屋の地下から銀行の地下へトンネルを掘って保管されている金貨を盗むという犯行を、ホームズがステッキで歩道を叩いてトンネルの存在に気付き未然に防ぐ──という話なのですけれど、こんなの本当にあり得ると思いますか? 測量機械や支保工もなしに、おまけに掘り出した土はどうやって処分したのでしょうか。しかも一人の力で出来ると思いますか?私はこういうトリックを試してみるのが好きなのです。その他、自殺を他殺に見せかけるトリックを使ったのが《ソア橋》事件です。この話は、夫の心を奪ったガヴァネス(住み込みの女性家庭教師のこと。本書では、p.190「ガヴァネス」で取り上げている)の犯行に見せかけるため、ソア橋の上で夫人が自殺を図るという話です。肝心のトリックというのは、自殺に使ったピストルを紐で結び、もう一方の紐の先は大きな石に結び付けられ、それは橋の欄干を越えているという具合です。夫人がピストルで頭部を撃ち、手を離せばピストルは自動的に池に落ちて凶器を隠すことができます。こうして他人に罪をきせるのですが、これも実験をしてみると石が小さくて軽いと引きずられている最中にピストルが止まってしまい橋の欄干を超えません。かといって石があまりにも重いとピストルが不安定になってしまい、まともに撃てないという結果になりました。だから現実的には非常に難しいトリックだという結論に達したわけです。こういう不自然なトリックは他の事件にあると思います。だからと言って、決して物語の価値が下がるというわけではありません。

 「ホームズ物語」の魅力として、実際にヴィクトリア朝の様子がよく書けているので面白いという部分や、一方、そういったトリックに疑いの目を向けてあわせて読むと10倍も20倍も面白くなるのではないかと思います。ということで、今日は駆け足だったのですが「ホームズ物語」の魅力と作者コナン・ドイルについてお話をさせていただきました。ご清聴ありがとうございました。

 

この後サプライズということで本書(p.46「音楽」)にも登場する信田恭子さんのバイオリン演奏があり、続けてイベント参加証の配布、サイン会が行われた。

 

「シャーロック・ホームズ トリビアの舞踏会」のご案内

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  • シャーロック・ホームズ トリビアの舞踏会

    四六判 / 352ページ / ¥ 1,650

    ホームズの名は、最初はシャーロックではなかった!?
    世界的研究家が深い愛情と広い見識で綴ったトリビアエッセイ集

    "名探偵といえばホームズ。ホームズといえばシャーロッキアン・田中喜芳。
    田中さんの溢れんばかりのホームズ愛が満載のエッセイ集。思わず目を見張る(目を細める?)素晴らしいイラストもぜひ楽しんでほしい。ホームズを愛する人も、これから好きになる人も、全員が必読の一冊!
    歴史ミステリー作家(「QEDシリーズ」など)・シャーロッキアン見習い(笑):高田崇史

    日本を代表するシャーロッキアンで、世界で最も権威あるホームズ研究団体(米国、ベイカー・ストリート・イレギュラーズ:BSI)二人目の日本人会員である筆者が、様々な切り口と豊富なうんちくを駆使して、ホームズから広がる幅広い話題を楽しく語る。

    【CONTENTS】
    第1章 シャーロック・ホームズは起業家
    1 ベイカー街221B
    2 トカイ・ワイン
    3 モデル
    4 真実の瞬間
    5 ホームズの好み
    6 待つということ
    7 ホームズのアスペルガー的特徴
    8 音楽
    9 引退後の生活
    10 名探偵の食事
    11 もし、ドラッカーがホームズに会ったら

    第2章 コナン・ドイルをスキャンする
    12 名前の研究
    13 ドイルと柳田國男
    14 聖書
    15 医学博士号
    16 エジンバラ
    17 コナン・ドイルの性格分析
    18 競馬
    19 名医をめぐる問題
    20 オリンピック
    21 コナン・ドイルと大佛次郎

    第3章 「ホームズ物語」の隠し味
    22 教授
    23 妻を送った男たち
    24 手紙
    25 教会
    26 ネットリー病院
    27 ワーク・ライフ・バランス
    28 暗号
    29 写真
    30 告白
    31 外交官
    32 投資家

    第4章 一夜で皆がヴィクトリアン
    33 ホテル
    34 「ホームズ物語」に見る女性の自立
    35 ヴィクトリア朝を語るには
    36 ガヴァネス
    37 牛肉料理と猟鳥料理
    38 帆船
    39 火事
    40 馬車三題
    41 質屋
    42 住宅建築と学校建築
    43 紅茶

    第5章 シャーロッキアンには明日がある
    44 シャーロッキアン
    45 絵画
    46 博物館
    47 シャーロック・ホームズ像
    48 ホームズのヨコハマ
    49 ドイル作品愛読先駆者の一人、川田龍吉
    50 ブラチスラバ、ウィーン、プラハ三都物語
    51 ハンガリー
    52 コレクター
    53 細かいこと、些細なこと
    54 黎明期のホームズ映画

    第6章 出会ったら最後
    55 コーンウォール
    56 依頼人のワードローブ
    57 同姓同名
    58 縁結びの神様
    59 岡倉天心
    60 三人のバートン
    61 テムズ川での追跡劇
    62 国際結婚
    63 バールストン館のモデル
    64 ボヘミアン・ラプソディ
    65 「出会い」について

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