ビートルズと日本

今から50年前、1966年6月29日未明から7月3日午前にかけての103時間、日本に滞在し5回の公演を行ったザ・ビートルズ。来日50周年となる今年、50年前の来日時と同じスケジュール(6月29日〜7月3日)で、シンコーミュージック・エンタテイメント・アネックス内の特設会場に於いて5日間に渡りトークイベント「ビートルズと日本 TOKYO 5 DAYS」が行われた。

6月29日:藤本国彦氏&野口 淳氏

1ビートルズ日本公演初日に当たる6月29日に登壇したのは藤本国彦氏(『ビートルズ・ストーリー』編集長)と野口 淳氏(ビートルズ資料館 館長)。テーマは藤本氏編集による書籍「ビートルズを観た! 50年後のビートルズ・レポート」(音楽出版社より 7月12日発売)をベースにしたビートルズ日本公演に関する様々な側面と関わった人々の体験談。
まずは公認ビートルズ・ファンクラブ設立時にその通訳としてメンバーとの間をつないだ女性の話、ライヴ収録を行ったテレビ局の照明担当者の証言やその放送台本の紹介、ホテルを抜け出したジョン・レノンが行った骨董屋でサインを貰った方の体験談など、様々な関係者からの貴重なエピソードやその取材経過などが語られた。
そして、一番大切なのは現場で観たファンの視点ということで、実際に武道館公演を観に行った当時10代だったファン達の取材を行い、そのインタビューやアンケートを通して得られた真の「ビートルズ世代」のビートルズ体験の数々が披露された。
さらに、この日本公演が海外でどう報道されたのかという点について、当時の英米の音楽紙にかなり克明なメンバーの日本体験談などの記載があったことなども驚きを持って紹介された。
最後は野口氏が参加した、ジョンの妹ジュリアが来場したイベントで披露されたジョンとの珍しいエピソードも語られ、1時間半に渡るトークは幕を閉じた。

 

6月30日:川柳つくし師匠

2来日二日目に当たるこの日はロック落語。<イエロー・サブマリン>の出囃子に乗って臨時設営の高座に上がったのは女流落語家川柳つくし師匠。自身が体験したポール・マッカートニー来日公演関連の話題をまくらに、父親が残した6月30日のビートルズ武道館公演のチケットを巡る仰天のタイムトラベル物の一席「パラレル・ビートルズ」、リンゴ・スターと息子のザックを主人公にザ・フーまでが登場する一席「青菜(I wanna hold your hand)」を披露。扇子2本を手にキース・ムーンとリンゴのドラミングを叩き分け、ピート・タウンゼントの派手なギター・アクションまで演じる熱演に加え、ロック・ファンのツボを付いた細かい音楽ネタが随所に織り込まれた噺に場内は一気にワンダーランド化。ロック+落語という新たなエンターテイメントは大爆笑のうちに終演となった。

 

7月1日:大村 亨氏

3来日三日目は、書籍「ビートルズと日本」の著者大村 亨氏が登壇。出版時のイベントでこの本の誕生の経緯などは語られていたので、今回は本書に収録できなかった部分をPC+モニター画面で解説しながらの大プレゼンテーション大会となった。メインテーマは「ビートルズの日本盤レコードの発売日はいつか」。来日を中心に新聞、雑誌、テレビ、ラジオなど様々なメディアで、当時日本ではビートルズがどう取り扱われたかを分析した大村氏ならではの鋭い考察で、レコードの発売日に関しての数々の事実を浮かび上がらせていった。関連して、プレスマークというレコード盤に刻まれた数字や記号から、その盤のプレスされた年・月をはじめ、当時のプレスを請け負ったメーカーまでが読み取れるという“濃い”話に場内は引き込まれていった。
そして「発売日というのはメーカーしか決められないそのレコードの誕生日。人間でいえば戸籍に当たるもの」という大村氏の規定を基に、「ビートルズのレコードが日本で最初に発売された日はいつで、そのレコードは何なのか?」というミステリーの推察、解析が行われた。レコード・メーカーにもその正式な発売日に関する決定的な資料は存在しない中、最初に関連書籍に記載された日付が一人歩きして既成事実化している状況などが紹介され、氏の結論としては「現時点では特定不能、ただし戸籍上では<抱きしめたい>がファースト・シングルの日本デビュー曲」という状況であるということが語られた。しかし「戸籍と実体は違う可能性が濃い、“デビュー”は様々な定義・解釈が可能なので、“戸籍”の側面だけで片付ける問題ではない」ことも強調され、非常に濃い100分近いトークは終了した。

 

7月2日:星加ルミ子氏

4来日四日目。実は50年前1966年のこの日、当時ミュージック・ライフ誌編集長だった星加ルミ子氏はビートルズが滞在していた東京ヒルトンホテルの10階のスイートルームでメンバーの独占取材を行っている。その前年の65年にハード(気難しく)でスマート(頭がキレて)でタフ(折れない神経を持った)なマネージャー、ブライアン・エプスタインを陥落して成功させたビートルズ取材。そこで勝ち取った信頼を元に、個別取材は受け付けないという状況の中で実現させた取材だった。
「ビートルズの4人はいつどこで会っても同じように話してくれました、あれだけ世界のスーパースターになってもそんなことはこれぽっちも見せない、無邪気で純真で裏表のない人たちでした。そんなところがレコードや写真を通して世界の女の子に届いたんじゃないでしょうか」
7月2日13時少し前頃パブリシストのトニー・バーロウから「ボーイズの時間がある」と連絡を受け、着物に着替えML人気投票の楯を持ってカメラマンの長谷部氏と共にメンバーの部屋へ。そこでは土産物やカメラを選ぶメンバーをはじめ、4人の描いた抽象的な絵やスケッチ、歴史に残るジョン・レノンのシェー・ポーズなど出来る限りの姿を長谷部カメラマンが撮影。
「部屋に運び込まれたステレオセットでジョンは日本の民謡のアルバムを熱心に聞いていて、その中でも“スゴくリズムがおもしろい”と言ってたのが宮城県民謡<斎太郎節>。私は翌年の「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のエンディングに似たリズムの部分があるなぁ…と思いました」
その後でジョンから「もうすぐビートルズは解散します(FADE AWAY)」という衝撃の発言が飛び出し、一旦はジョークなんだとみんなが笑ったが、ブライアンからは「今の話は絶対書くな」と怖い顔で言われたこと、さらにリンゴ・スターが「そうだよブライアン、僕たちこんなに稼いだのに、このお金はいつ使えばいいんだい?」と蒸し返すようなことを言ってまたみんなシーンとなったというエピソードが語られた。
「ブライアンから8月に行われる全米公演の取材に参加しないかという話をされ、帰国後、私と長谷部カメラマン2名分のオールエリア・フリーのパスが届けられました。ともかく彼らの取材でイヤな想いをしたことはありません。撮った写真のチェックは一度もなし、記事を英訳して事前に見せろと言われたこともありませんでした。他ではそうではなかったことは後で知りましたが」
“もう一度日本に行ってコンサートをしたい”とメンバーは言っていたそうだ。

 

7月3日:高嶋弘之氏

5最終日は、ビートルズの日本での初代担当ディレクター高嶋弘之氏が登壇。日本に於ける初期ビートルズの独自のプロモーション手法や、超アイデアマンの氏がどうやって当時の「ビートルズ現象」を生み出したのか、様々なマル秘話が披露された。
「飛び込みで入った紳士服店に“これからブームが来る!”とビートルズ風の衿なしスーツを作らせ、それを宣伝マンに着せ銀座を歩かせた」「“早くもビートルズ・カットの若者登場”と仕掛けて風俗としてのビートルズを広めた」「レコード会社の宣伝マン全員にビートルズ風ヘア・スタイルをさせ写真を撮った」「電話リクエスト番組でビートルズに票が集まるように工作をした」「ビートルズを認めなかった音楽評論家を応援派に転向させた」などのエピソードに場内は大爆笑、そのバイタリティ溢れるディレクター魂が日本でのビートルズ人気を爆発させたことに大いに納得させられた。また、「抱きしめたい」「ノルウェーの森」「愛こそはすべて」といった名邦題の生みの親である氏が語る日本語のタイトル付けの話も、その柔らかな感性とアイデアが日本の洋楽興隆のきっかけとなったことを痛感させるものだった。
さらに日本独自のベスト・アルバム『ベスト・オブ・ザ・ビートルズ』を企画したが本国からの要請で発売が中止になったことが語られ、貴重なレコード盤も披露された。

 
 
 
様々な形で、「ビートルズと日本」が語られた5日間。全日登壇者がトークイベント後にサイン会を行い、ビートルズの魅力を共有しながらファンと会話を交わす姿が印象的だった。

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