5月11日、トークイベント『音楽のDNA — ヒットソングにビジネスを学ぶ』のVOL.1が、ゲストに音楽プロデューサーの草野浩二氏、酒井政利氏を迎えて開催された。モデレーターは『ヒットソングを創った男たち 歌謡曲黄金時代の仕掛人』の著者、濱口英樹氏が担当。

TV番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)のテーマ曲に乗って草野氏、酒井氏が登壇。濱口氏の司会により近況を含めた今回のイベントの概要が紹介された。

──ヒットメーカーに相応しく『ザ・ヒットパレード』のテーマ曲でお迎えいたしました。センターにいらっしゃるのが草野浩二さんです(場内大拍手)。そして上手にいらっしゃるのが酒井政利さん(場内大拍手)。本日はよろしくお願いいたします。この本『ヒットソングを創った男たち』の第一章が草野浩二さん、第二章が酒井政利さんで、各々がこれまでに手がけられた400曲くらいのリストも掲載してあります。このお二人が揃うというのはとても貴重な機会なので色々伺おうと思うのですが、お互いに初めて会ったときのことを覚えてらっしゃいますか?

草野浩二氏(以下草野):初めてっていうのはいつ頃だろうね、まだあなた(酒井氏)がコロムビアにいた頃。ただ、今みたいに仲良くはなかった(場内爆笑)。

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あの頃はレコード会社同士バチバチやっていて、特に東芝(草野氏勤務)なんかは一番新しい会社で、キング、コロムビア、ビクター、テイチク、ポリドール5社しかなくて、東芝がポリドールの次に出来た6番目の会社だったんです。その後にできたのがクラウン、だからできたての頃は各社ライバル意識がありました。今みたいにレコード会社同士の交流ができてきたのは、我々がヒットを出して会社の顔みたいになって、皆同じ歳くらいの人たちと仲良くなってから。いわゆる作家の専属制がなくなってフリーの作家を通じての関係ができて、例えば皆で筒美京平を使い回しにしたり(笑)、橋本淳やなかにし礼がいたり皆で共通の作家と仕事を始めたからね。それまではコロムビアの人は古賀政男さん、ビクターの人は𠮷田正さんがメインだったけど、フリーの作家を使えるようになってディレクター同士も交流するようになったみたいな気がしますね。

──GS(グループサウンズ)の大ブームが67〜68年で、その頃からフリーの作家の時代に突入するわけですけど、酒井さんは68年に第一期生でCBS・ソニーに入られて。

酒井政利氏(以下酒井):CBS・ソニーの前に日本コロムビアにいました。私は他メーカーの東芝とかビクターやキングには余り興味がなかった。コロムビアは本当に大きなレコード会社で、そこで揉まれてたから社内には神経を注いだけど、社外にはもう全然関心がなかった。だから後からですね、CBS・ソニーに行ってから交流が深まりました。

──その頃はまだ20代で、すでに若手の頃からヒットをたくさんお出しになっていてレコード会社の顔だったんですけど、お互いの仕事ぶりをどう評価していたか──今だから言えるお話を。

草野:共通の作家さん、例えば京平さんから酒井さんはどういう仕事ぶりなのか…とかなんとなく聞きましたけど、詳しく聞いた覚えはないですね。

──この本の中では、草野さんはコロムビアの名ディレクター泉(明良)さんがプロデュースしたいしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(68年)を聴いたときに…。

草野:あれは京平さんたちと、奥村チヨで小唄風な歌をやろう…っていう話をしてたら、いしだあゆみで先にやられちゃって。

──突き放すような歌い方で。

酒井:それもね、いしだあゆみは元祖じゃないんです、筒美京平さんの嗅覚、触覚かな…あれは西田佐知子なんですよ。京平さんはポリドールにいたから西田佐知子のやや投げやりなワン・ビブラートの歌い方を活かしたくて、それを橋本淳がいしだあゆみに教育したんです。いしだあゆみは上手くなかったけど、上手くない人が掴んだ方が大きいんです。上手い人が上手く歌っても当たり前で、下手な人が上手く歌うと表情に出る。それを引き出したのが橋本淳さん。いしだあゆみとかは今で言うとJポップの流れなんです。当時コロムビアに入って無我夢中でやってた我々が一番影響を受けたのは「黒い花びら」(59年/水原弘)や「上を向いて歩こう」(61年/坂本九)。その新鮮さ、あれがJポップの始まり、一番の大ヒットだった。

──「黒い花びら」や「上を向いて歩こう」も新興のレコード会社東芝から生まれた。

酒井:そこから新しい波が起きてきた。

──その後CBS・ソニーでアイドル・ポップスなどの流れも出てくるのですが、お二人がお会いになるのはいつ以来ですか?

酒井:草野さんは岩谷時子賞の審査員をされてたし、レコード大賞の審査とかでもしょっちゅうお会いしていて。

草野:一番最近は美佐さん(渡邊美佐)らとご飯を食べたとき。

酒井:あ、そうですね。だから今は草野さんが一番目の古株、僕が二番目の古株みたいなものなんですよ。

──そんなお二人がステージで話されるのは。

酒井:今日すごく楽しみにしています。

──ありがとうございます。

この後、モニターに草野氏、酒井氏それぞれのプロフィール、影響を受けた曲や代表曲のシングル・ジャケットが映し出され、音源を聴きながらトークが続けられた。

──草野さんが1960年に新卒で入られたのが東芝の。

草野:東京芝浦電気のレコード事業部です。エレベーター事業部とか色々事業部があった中のレコード事業部で、それがその年の10月に東芝音楽工業というレコード会社になったんです。

──22歳での初ディレクションがダニー飯田とパラダイス・キングの「悲しき六十才」(60年)でこれがヒットして、カバー・ポップスの黄金期が60年代。そして坂本 九さんの「上を向いて歩こう」がアメリカで火がついてチャート1位になったのが1963年…となるんですが──まずはご自身が最初に影響を受けた曲がハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」(52年)、カントリーということで。

草野:僕が物心ついた昭和25年(1950年)は、戦争が終わって5年くらい経った頃で、兄貴(草野昌一氏〔作詞家 漣健児〕)がラジオでFEN(当時は進駐軍放送といわれた局)をよくかけていたのでそれを聞いてました。米兵はカントリーが好きですから番組もカントリーが多くて、ハンク・ウィリアムズやハンク・スノウ、ハンク・トンプソンのスリー・ハンクスとかがしょっちゅうかかってた。でも英語はまだ分からなかったし、当時はまだ英語教育なんかできてなかったから、ヒアリングで歌詞を起こして、カタカナでこの「ジャンバラヤ」を覚えて歌ってました。この曲だけじゃないですけど、カントリーとハワイアンが僕の音楽の原点ですね。

──では代表曲を聞きながらお話を伺いたいと思うのですが、まずは言わずもがなの一曲「上を向いて歩こう」。

草野:NHKの『夢であいましょう』という番組からなんだけど、その前に作曲の中村八大さんのリサイタルがあって、それ用に曲をたくさん書かれた中から坂本九がこの曲を歌った。それで、すごくいいからすぐレコーディングしようってなったら、当時放送していたNHKの『夢であいましょう』の今月の歌に決まって、さらに評判が良かったから倍の2ヶ月放送になって。でもアメリカで売れるとは全然思ってなくて、最初アメリカで1位になったって聞いたときも──向こうで誰かが英語でカバーしたものが売れてるんだろう──って思ってた。だって戦争が終わって20年も経ってないのに、敵国だった日本語の歌がアメリカで売れるわけがないし、歌詞の意味も分からないわけだから。ところが九坊(坂本九)の歌で売れてるって聞いたときは、“え、なんで?!“って思った。だってドイツ語の歌もフランス語の歌もアメリカで1位になったのは一曲ずつくらいしかないのに…。最初からアメリカで売ろう!と思って売れたんだったら僕もそっくり返って歩くんですけど、拾った宝くじが当たったみたいなものだから(笑)。後になってアメリカに行ったときに、“お前はこの曲でいくら稼いだんだ?”って訊かれて──アメリカはプロデューサー・システムだからディレクターにも印税が入るんだけど──、僕は東芝の社員だったから“月給で500$(1$=250円の頃)くらいだ“って言ったら向こうのヤツがヒックリ返ってました(笑)。

──中村八大さんはフリーの作家の先駆けですよね。

草野:僕が1960年にディレクターになった頃はレコード会社も5社しかなくて全部が専属作家制度を敷いていたから、新しくできたばかりの東芝がビクターやコロムビアの作家を使うわけにはいかなかった。でもフリーっていったって、永さん(永六輔)、八大さん、宮川泰さん、岩谷時子さんくらいしかいない時代だったんで、僕は困り果ててカバー・ポップスに走ったわけですよ。まだ英語の歌詞をカタカナにして覚えてるような時代でしたから、アメリカの歌を日本語に通訳してあげて歌わせる…っていうことに目をつけて。まぁ僕が子どもの頃から既に江利チエミさんの「ウスクダラ」(54年)とか雪村いづみさんの「青いカナリヤ」(54年)のように外国曲を日本語にしてヒットしていた曲がいっぱいあったのでそれをどんどんやろうと。で、たまたま兄貴が『ミュージック・ライフ』っていう洋楽の雑誌をやっていたので、そこの編集部に行くと各社のテスト盤が山のように来ていて、レコード会社の一推しも分かってね。そこで力を入れそうな曲で日本向きの曲をカバーしたんです。

──で、兄貴ちょっと書いてくれない?って頼んで──。

草野:訳詞をするのが僕と同僚だったホセ・しばさきさん(柴崎宗左)っていう学芸部にいたディレクターで、彼に詞を頼んでたんですけど、彼ひとりじゃ追いつかないので、ミュージック・ライフ/シンコー・ミュージックにアルバイトでいた安井かずみが<みナみカズみ>のペンネームで訳詞をして。それでも足りないので兄貴に頼んだんですよ。兄貴は既にシンコーで出していた本の上で訳詞をやっていて、その中で「赤鼻のトナカイ」が流行ってたんですけど。

──新田宣夫さん名義で。

草野:それで、「ステキなタイミング」(60年/ダニー飯田とパラダイス・キング、メイン・ヴォーカルを坂本九)から漣健児が生まれたんです。

──酒井さんは、先ほどの「上を向いて歩こう」の頃は松竹にいらした?

酒井:もう日本コロムビアにいました。「黒い花びら」とか「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」(63年/ジェリー藤尾)には凄く影響を受けてるんですよ。「遠くへ行きたい」は今でいうJR<ディスカバー・ジャパン>キャンペーンの第一弾のようなもので、私はその後「いい日旅立ち」(78年/山口百恵)や「2億4千万の瞳」(84年/郷ひろみ)を仕掛けるんです。「上を向いて歩こう」は、今、話を聞いていて思ったんですが、売ろうとかスターにしようとかっていう邪念なしで作ってるんですよ、リサイタルでキャラクターを活かして。ジャニー喜多川さんもこの曲が大好きで、フォーリーブスをやった時に『少年たち』(69年)ってアルバムの中でのテーマにしたんですよ。この当時は永六輔、中村八大がいて。

──それまでの歌謡曲にはない世界を作りましたよね。

草野:それまでにいた各社の演歌の専属作家にはない、ジャズから影響を受けたポップス。八大さんがジャズ・ピアニストだったから。

酒井:そういう新しい世代から見たら演歌の世界は古臭いし、歌謡曲も古いわけ。だから凄くいい影響の波を与えた東芝の功績は大きいと思うんですよ。

──新興の会社で、専属の先生に縛られないからできた。

酒井:コロムビアは専属作家はキラ星の如くいるわけです。作詞の西条八十先生から作曲は古賀政男先生から…、そういった専属作家の先生方を起用しなければいけなかった。でも私はそれがダメだったんです、古く感じて。それで若い岩谷時子先生にお願いするんですが、これが発売できないって事件になるんです。つまりフリーの作家は使っちゃダメなんです。でも若い作家の作品に魅力を感じてたんですよね。

──ここで60年代前半カバー・ポップス全盛時の作品ということで、漣健児さん作詞の弘田三枝子の「ヴァケーション」(62年)を聴いて草野さんにお話を伺いたいと思います。

草野:「ヴァケーション」は各社競作だった、それがイヤだったからわざと「リトル・ミス・ロンリー」をA面にしたんです。そうしたらやっぱり「ヴァケーション」の方が売れて、各社から出た(青山ミチ、金井克子、伊東ゆかり他)中で弘田三枝子が断トツで。

──この曲で62年の紅白歌合戦に初出場するのですが、当時は15歳。この曲を編曲された大沢保郎さんが草野さんの所に連れてきたのがデビューのきっかけで。でもこの声はなかなかなかった。

草野:歌謡曲の美空ひばりさんに匹敵するような声だった。

──弘田さんがコロムビアに行ってしまったので、その後釜を…と探されたのが。

草野:奥村チヨです。テレビで〈リキ・ホルモ〉(栄養ドリンク)のコマーシャルをやってたんです。やっぱり、この声に惹かれて大阪まで会いに行ったんです、当時はまだ18歳。ちょうど高校三年生だったので、卒業するまでダメだって言われて、卒業を待ってすぐにデビュー。シルヴィ・バルタンのカバー「私を愛して」(65年)で和製シルヴィ・バルタンって売り出したんですよ。でもそれは売れなくて4枚目の「ごめんネ…ジロー」(65年)が最初のヒット。それからベンチャーズの「北国の青い空」(67年)。

──その後69年〜70年に「恋の奴隷」「恋泥棒」「恋狂い」とヒットして。

草野:「恋の奴隷」は紅白では歌わせてもらえなかった。結局「恋泥棒」を歌ったんだけど、「奴隷がダメで泥棒はいいのか?」ってNHKに文句言いましたよ(笑)。

──そうやってヒットはしたんですが、あまりに鼻を鳴らすような歌ばかりだったので、チヨさんが泣いたんですか?

草野:もうこういう歌はイヤだって。で、運良く「終着駅」(71年)が出たんです。

──大ヒットしました。その前に先ほどの〈恋三部作〉と筒美先生の三部作「くやしいけれど幸せよ」「嘘でもいいから」「中途半端はやめて」(いずれも70年)があって。

草野:それがもう決定的で、「嘘でもいいから」は川内康範が作詞なんだけど、♪抱き抱きしてよ〜、♪撫で撫でしてよ〜って歌詞がもうダメで、チヨが拒否反応を示して。

──歌わされる…というのも歌謡曲の醍醐味で、シンガー=ソングライターではできませんからね。で、「終着駅」はチヨさんのお好みの曲調で大ヒットした。

草野:作った奴までお好みで(作曲の浜圭介氏と結婚)。

──そういうオチがついて(笑)。で、ベンチャーズのお話も伺いたいのですが。

草野:ベンチャーズは「二人の銀座」(66年/和泉雅子・山内賢)が最初だった。ディレクターは渋ちゃん(渋谷森久氏)。それから「北国の青い空」(67年)があって、次が渚ゆう子の「京都の恋」(70年)。渚ゆう子はその後も「京都慕情」(70年)、「長崎慕情」(71年)とヒット。その間に欧陽菲菲の「雨の御堂筋」(71年)が売れて。それ以降はあまり売れてないんですよね。

──その頃は歌謡界でベンチャーズの曲がブームで、どういうところがいいなと思ってらしたんですか?

草野:外国人が作ったのに日本人好みがする歌謡曲のメロディ・ラインだったんです。彼らは来日したときに日本の歌謡曲を聞いて研究してメロディを作ってきて “こういうのを作ったから聞いてくれ”って売り込みに来たんです、まぁダメになった曲もたくさんあるんですけど。というのもギターで作ってくるから音域が広すぎてね、「北国の青い空」だって奥村チヨ以外歌えないんじゃないかな。それを歌いやすく編曲してくれたのが川口(真)さん。

──草野さんが組んで仕事をされていたのが行方洋一さんという東芝音工のレコーディング・エンジニアの方。この方は草野さん専属というか。

草野:ずっと一緒に仕事をしてました、京平さんや川口さんにも好まれて、“ミキサーは行方じゃないとイヤだ”って。だから京平さんが他の会社、ソニーとやるときも行方は内職でやってました。

──上村英治二という変名で「木綿のハンカチーフ」(75年/太田裕美)、「東京ららばい」(78年/中原理恵)とかのエンジニアをされて。その行方さんがご自分の著書で、あの歌の上手い渚ゆう子さんもベンチャーズの曲には難儀したと書いてらっしゃいました。続いての欧陽菲菲さんは?

草野:欧陽菲菲は台湾でスカウトして、その後来日してた頃にベンチャーズも売り込みに来ていて。

──ちょうどタイミングが合ってそれが「雨の御堂筋」になるわけですけど、それに味をしめたベンチャーズは次々と曲を送ってきたと以前仰ってましたが。

草野:ヒドい曲ばかりでね(笑)。

──(笑)こうやってお話を伺っていると、やはり洋楽がベースになる曲が多いですね。

草野:やっぱり東芝ができたときに専属作家がいなかったということがすべてのスタートなんですよ。それでカバー・ポップスになって、その後京平さんとか鈴木の邦ちゃん(鈴木邦彦氏)とか若い作家が出てきて、そういう人たちと仕事をするようになった。GSの時代になってようやくそういう若い作家が育ったんですね。川口真、阿久悠、橋本淳とかが皆デビューしたんです。

この後、草野氏の担当された坂本九、奥村チヨ、安西マリアの貴重映像が披露された。

──お待たせしました、ではここからは酒井政利さんにお話を伺います。まずは酒井さんの原点を伺えますか

酒井:私は和歌山県の有田という所が実家なんですけど、そこにあった土手や池が自分の原風景としてあるのですが、小学生のときにその池に映る景色を描いたところ評価してくださる人がいて、それからどんどん絵が好きになり、やがて映画も好きになるんです、映像を浮かべながら空想や妄想をするのが好きで。それで映画会社へ入るのですが、影響を受けたのは山本薩夫監督、そしてソニーに入ってからお会いした寺山修司さん。こういった人たちが凄い影響を与えてくれたわけです。今でも一番拘るのは歌の前にまず“言葉”、テーマ作りです。もっとこうなるんじゃないかっていう妄想ですね。

──酒井さんは松竹に入社されたものの、映画が斜陽し始めたこともあって日本コロムビアへ。コロムビアでは守屋浩、こまどり姉妹、島倉千代子等々多数のアーティストを手掛けられて、1964年青山和子さんの「愛と死をみつめて」が老舗日本コロムビアで初のレコード大賞を受賞します。

酒井:当時は歌謡曲全盛期で、専属作家との仕事は余り楽しくなかったんです、私も自分はどうすればいいんだろう…っていうストレスもあって。それで、“そうだ、映画を作るつもりになって、脚本があってキャスティングを頭の中に置いて主題歌を作ればいいんだ”って思ったんです。それで原作を探し歩いて見つかったのがこの「愛と死をみつめて」。これは難病で亡くなった大学生の現実にあった往復書簡が元になった話です。私が制作するとき第一に大事にするのが言葉。さっきの草野さんの話を聞いていても、奥村チヨさんはなかにし礼さん〈恋三部作〉との出会いが良かったと思うんです、言葉の洗礼を受けて。そういう思いの中で出会ったのが、まだ本になる前の「愛と死をみつめて」の原作でした。

──もちろんベストセラーになる前、これは面白くなりそうだなと。

酒井:売れたら映画を作っても面白いし主題歌も作りやすい──ということで
独占契約をもらいまして。時間をかけて詞を作りました。4人くらい候補を挙げて8作くらいできたんですが、その中で一番良かったのが女子大生の大矢(弘子)さんの歌詞、歌の頭にインパクトがあって、♪マコ甘えてばかりでごめんね…。これですべてを言えてる。ですから私はいつも歌の頭を大事にしています、キャッチーで引っかかりになる〈投げる言葉〉が大事なんです。

──永六輔先生も「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」(63年/坂本九)、「こんにちは赤ちゃん」(63年/梓みちよ)など、歌の頭にタイトルを持ってきて、それで訴求するんだって仰っています。

酒井:曲はクラシックを勉強している新人の作家(土田啓四郎)を紹介してもらって、条件としては日本コロムビアの専属作家になる──ということで書いてもらったんです。それとアレンジですね、曲の頭にインパクトがないとダメなんです。作品のイメージを伝えるアレンジが。

──その後、1968年にアメリカのCBSと日本のソニーが資本を出しあってCBS・ソニーができるのですが、酒井さんはそこの第一期生として入られる。

酒井:CBSというのは元々日本コロムビアと契約していたんです、でも新しい会社になれば専属作家制はもうないと、大きな夢を描いて志願して行きました。

──よっぽど専属作家制というのがイヤだったんですね。

酒井:イヤというか、一緒にやらなきゃならない作家が才能があるかどうかがが問題で。

──そうして出会った寺山修司さんの「時には母のない子のように」(69年/カルメン・マキ)。

酒井:寺山修司さんとはなんとしても仕事をしたいと、渋谷の駅近くの事務所に伺ったのですが、“ソニーというメジャーな会社と仕事をする気は一切ない”と断られまして…三度くらい断られました。当時はアングラ(アンダーグラウンド)の劇団(天井桟敷)の主宰でしたから。それでもようやく遊びに行けるようになってサロンに行ったとき、カルメン・マキや、彼女の当時の恋人・支那虎も含め劇団員30人くらいが集まっていたんです。そこで、寺山さんが“レコード会社の人も来てるから黒板にみんなの好きな言葉を書いて、それを歌詞にして歌を作ってみよう”っていうのを始めたんです。シンガー=ソングライター風な人たちが歌を作る場面を見たのは私は初めてでした。そして30個くらいの言葉から寺山さんが一遍の詞を作り上げて、隅の方に座っていた音楽担当に“おい神田、これにすぐ曲をつけろ”って言って、15分くらいで一曲が仕上がったんです。それが神田紘爾さん、後の小椋佳さんです。小椋佳は天井桟敷のアルバム『初恋地獄篇』(70年)で歌っていて、CBS・ソニーから神田紘爾としてデビューしてるんです。そしてカルメン・マキの「時には母のない子のように」もその中の一曲だったんです。この曲も頭の部分に言葉が投げかけられています、当時の寺山さんが放った「書を捨てよ、街へ出よう」という言葉もショッキングでした、アテンションの強い人で、そういう意味でも師事していました。私にとっては本当に勉強になった恩師です。

──では続いて南沙織の「17才」。沖縄がまだ返還になる前、沖縄出身のアイドルのデビュー曲です。

酒井:この作品も根底では寺山さんに影響を受けているんです。先ほどのカルメン・マキを見たときに彼女は野性的なひとだと感じたんです、着飾ってなかったんです。寺谷さんの口癖で“若い人は着飾ったらダメだ”というのがあって、私もそういうちょっと野性的な新人がいないかな…と探していたんです。探すときは想念を持つ──こういうことをしたい、こういう人に会いたい──するとそういう想念は叶うものなんです。沖縄のプロダクションのマネージャーが私のそういう思いを知らずに、“テレビ局でこういう子がアルバイトをしている”と写真を持ってきたのが内間明美=南沙織でした。長い髪、陽に焼けた肌の子でこれは自分のイメージしたものとピッタリだ、さっそく会いたいと東京に呼んだのです。それまで〈歌う青春スター〉というキャッチ・フレーズだったのを〈アイドル〉として打ち出そうと、寺山さんとの話でも考えていました。まだ沖縄が返還前で海外だったので簡単にいかなかったのですが、羽田に着いた時の印象は、とにかく彼女は鮮烈でした。周囲の人がエキストラに見えるくらい、彼女だけが際立った自然な美しさだったんです。ただ心配したのはアイドルにしてはちょっと利口そうな顔過ぎる、よく言えば知的だったんです。それで、有馬三恵子さんの歌詞、曲は筒美京平さんでアイドル・ソングを作り始めた。ですからアイドル第一号が南沙織だったわけです。

──草野さんは東芝にいらしてその状況をどう見てらしたんでしょうか?

草野:それは…うらやましいなと思いましたよ。僕は若いアイドルで可愛いだけっていうのは苦手だったんです。さっきも言ったように声に惚れる…というのがあったので。

──さっき打ち合わせのときに仰ってたんですけど、酒井さんは〈面喰い〉で、草野さんは〈声喰い〉。

酒井:私はその〈面喰い〉っていうのを誤解されるんですけど、どれだけその人の顔に表情を持っているか…という〈面喰い〉なんです。表情は究極的には表現につながるので。南沙織も色んな表情を見せました、そういう意味でも、この人はイケルなって思いました。そして、飾らないのがいい…ということでタイトルも飾らずに「17才」(71年)。普通だったら、セブンティーン〜〜〜とか考えるんですが、それを止めて素朴にしました。

──歌詞には「17才」は一度も出てこない。では次に山口百恵さん。南沙織さんが長女とすると山口百恵さんは次女という感じでしょうか?

酒井:そうですね、この人は初めて出会ったときにはもう表情を持っていたんですね。だから歌手として上手くいかなくても、時代劇女優みたいになって行くんじゃないかな…と思ってたり。ともかくデビューは負けてるわけです、同じ『スター誕生!』(日本テレビ系)出身の中三トリオの桜田淳子さん、森昌子さんに。なんとしても追いつかなくちゃいけない、それでやや行動的な歌に変えたわけです。本当はもっと内面的な歌で行きたかったんですけど、それじゃ追いつかないから。「青い果実」(73年)、そして「ひと夏の経験」(74年)、この曲は本当に都倉俊一さんが考えに考えたサウンドで、これが彼女の中で眠ってたものを起こしてくれた。「ひと夏の経験」というのは何気ないんだけども、私の持っているものを貴方にあげる──という歌なんです。それに文学性を付けたいから「ひと夏〜」という気取りを出してるんです。

──「青い果実」でちょっとしたブレイクがあって、「ひと夏の経験」でポーンと行ったという感じで、オリコンで初めてトップ3、レコード大賞大衆賞、紅白のトップバッターという形で、最初の代表曲といってもいいのではないかと思います。では次は男性アイドル郷ひろみさん。「よろしく哀愁」(74年)は、安井かずみさん、筒美京平さん、森岡賢一郎さんという素晴らしい作家陣で、初のオリコン1位に輝きました。

酒井:そうですね、この人も出会いからスターでした。ジャニー(喜多川)さんが、フォーリーブスのバックで踊ってる原武裕美(本名)って子がいいって、六本木のソニーのスタジオに連れてみえたんです。スター性って不思議なもので、暗い中にいるんだけど、彼だけライトを受けてるような顔をしてる…スター性は内面から出るんですね。本当に与えられたスター運を持ってる、だから企画もどこか捻らないと、ただ顔がいいスタイルがいいだけで終わるんです。だから捻って捻って行きました。あと彼は顔とあの声のアンバランスな所が凄い。顔は美形、声は浪曲。

──そこにいるだけで王子様なんだけどちょっと哀愁があって。それを敢えて組み合わせた。

酒井:どうしても見るからに〈太陽〉って感じがするから、そのアンチで〈哀愁〉とかを持って来たんです。

──草野さんはこういう男のアイドルはどうご覧になってました?

草野:僕は男のアイドルはやったことがないんですよ。スリー・ファンキーズとかはグループの走りみたいなものですけど。それまでのコーラス・グループはデューク・エイセスやダーク・ダックス、ボニー・ジャックスみたいなのしかいなかった所に男の三人組が入って、これが組み物の初めじゃないですか。その後フォーリーブスとかジャニーズとか出て来ましたけど。僕は女の人のヒットの方が多いです。

──酒井さんはアイドルばかりではなくアダルトもやっているということで、朝丘雪路さんの「雨がやんだら」(70年)。これはアイドルばかりをやっている反動もあったと仰ってましたけど。

酒井:今でこそアイドルの価値観を認めてる人も多いと思うんですが、当時は音楽評論家と真面目に話してると“酒井さんは子どもの歌が好きなんですね、でもあれは一時だけのものだよね”って言って音楽的なことを認めようとしなかった。そこで、「雨がやんだら」。これは朝丘雪路さんの再生、それまでテレビの『11PM』(日本テレビ系)で人気があって、歌もクラウン・レコードで出されてたことがあるんですけど、暫く歌はやってらっしゃらなかった。そこで日音という音楽出版社が朝丘さんを呼び戻して──ということで、じゃあやりましょうかってなったんです。曲は筒美京平さんでこの再生路線にマッチしました。私、再生って好きなんですよ、青山和子さんもそうでしたし島倉千代子さんもそう。やり直すというのはやり甲斐があるんですね。

──つい先日伊藤蘭さんが41年ぶりに新作CDを出すというのが話題になりましたけど、次はキャンディーズの「微笑みがえし」(78年)。酒井さんは最後の2枚を直接おやりになった。

酒井:彼女たちとの仕事は楽しかったですね、気分は学校の先生でした。

──ラスト・シングルに阿木燿子さんを持ってきたのは、酒井さんらしいキャスティングだと思いました。

酒井:そうそう、“とにかくぶつけましょう”ということで。

──阿木さんはキャンディーズには初めての作品で、最後にオリコン1位を獲って有終の美を飾ったと。そして時代はニューミュージックに移ります。矢沢永吉の「時間よ止まれ」(78年)、ジュディ・オング「魅せられて」(79年)、久保田早紀「異邦人」(79年)を聴いていただくんですが、実はこの3曲にはつながりがあるんです。

酒井:1977年、電通のクリエイターの方から“南太平洋に行ってもらえないだろうか、ただその感想を言ってもらえればいい”ということで、何人かの人と約3週間の旅行招待の話をいただいたんです。でもどう考えてもそんな休暇は取れないし、無理です──とお答えしたんですけど先方も粘りまして…。実は作詞家の阿久悠先生が私を推薦してくださった──ということもあって参加することになりました。最初は“サモアやイースター島といった南太平洋を廻って食事のときに感想を言うだけ…なんと贅沢な旅なんだろう”と思っていたのですが、現地に着くと電通の方の態度が少しきびしくなるんですね。横尾忠則さんも一緒だったんですが、サモアでは現地の酋長の家に泊まることになっていて、電通の人から “一緒では困ります、今日からは一人で泊まってください、三日間は日本人同士会わないで。その後サロンを開きますからそのときに大いに語り合ってください”と言われて。まぁ随分話が違うな…と思いながらも彼らに従いました。三日間は魚やタロ芋を土中に埋めて蒸し焼きにしたような食事ばかりで、食べられたもんじゃなかったんですが、サロンではなんと憎いことにラーメンとかも準備されていて、久しぶりの日本食でさらに三日ぶりに日本人同士話ができるという状況になってました。そこで大いに語り合う──というのが電通の狙いでした。マスコミで忙しがってる人を集めて、海とヤシの木しかない、テレビもない外界と遮断した場所に置くと何を言うのか、どういう言葉を吐くか?というのが狙い目の旅。今で言うメディア戦略の旅、制作者たちが何を語り、メディアに対しどう発信するか──というのを見る旅だったんです。つまり何かを生み出すときにはテレビも雑誌もすべて活用して立体的に宣伝する時代が来てる──というメディア戦略会議。各種のメディアをミックスして実際に具現化するという会議のメンバーに選ばれたことは本当にラッキーだったと思います。そういう所に導いていってくださった阿久悠さんは本当に恩人なんです。それで、みなさんにお聞きしたいのですが、矢沢永吉さんのライヴに行かれて「時間よ止まれ」を聴いたことはありますか? これは暫く封印されていたんです。この「時間よ止まれ」は資生堂のCMでかかったんですが、その南太平洋の旅から生まれた曲でもあるんです。サモアのサロンで、“このサモアというのはまるで時間が止まってるみたいだ“という話題が出ていて、電通はそれをすべて記録に取っていたんです。資生堂がそれを見て、今のこの時代に“時間よ止まれ“というのはアンチで面白いかもしれない、化粧品のCMに使いたいという話になったんです。向こうはおそらく山口百恵さんを狙ってたんです。それで私に依頼が来たんですが、私は“これは女性じゃなく男で行きましょうよ”と提案したんです。その前に丁度阿久悠さんの事務所経由で矢沢永吉さんを担当してくれないか──という話があり、私も会って、じゃあやりましょうか──ということになった後での南太平洋の旅だったんです。で、戻って来てから考えると、矢沢さんと資生堂はまったく反対で全然合わない──でもそれが面白いと思って提案したんです。そうしたら資生堂は一も二もなくノッたわけです。
「時間よ止まれ」の詞は山川啓介さん、曲は矢沢永吉さんで、矢沢さんも喜んでレコーディングして完成しました。それでいよいよ発売日を決めようとしたら、矢沢さんは“出したくない”と言うんです。自分で書いた詞曲しかやらない主義だから詞を変えないと出したくない──と。じゃあなんで機嫌良く歌ったんだろう…と思うわけですが、それでも色々話した末、“酒井さん分かりました、発売してもいいですよ、ただし今後一切私はこの曲は歌いません”ということになったんです。発売はするが歌わないって本人が言っているのでどうしようもないわけです。それから何年の月日が流れたんでしょうか。彼が紅白に特別に選ばれた2009年に「時間よ止まれ」を歌うことを聞いて、“ああ随分気持ちも変わったんだなぁ”と思いました。ファンが選んだ1位の曲だったらしいですね、それで彼の中で「時間よ止まれ」が復活したわけです。まぁそういう経緯も含め、南太平洋から帰ってきた旅の後、「時間よ止まれ」が資生堂、「魅せられて」がワコール、「異邦人」がサンヨーテレビのCMとして使われ、すべて1位になってミリオンセラーになってるんです。結果論ですけど嬉しかった。そして山口百恵の「いい日旅立ち」も実は南太平洋関連四部作のラストを飾る作品で、これもミリオンセラーとなったものです。

この後、酒井氏の担当された南沙織、郷ひろみ、キャンディーズの貴重映像が披露された。

──では質問コーナーに入りたいと思います。事前にネットでも募集しましたが、この会場でも書いていただいた質問の中からも取り上げさせていただきます。

①酒井さんへの質問ですが、山口百恵作品に阿久悠さんの作品がないのはなぜですか?

酒井:『スター誕生!』の中三トリオで森昌子、桜田淳子、山口百恵がデビューして、先に森さん、桜田さんはヒットしましたよね。お二人とも阿久作品だったんです。森昌子さんは歌が上手い、桜田淳子さんは正に空の上からにっこりしているような天使。そこでは山口百恵はどうしても重い感じがして、だから作家も変えなくちゃならなかった。でも全部変えるわけにはいかないから作曲は都倉さんで歌詞を阿久さんではなく千家和也さんにお願いする──という工夫を凝らしたのが正直なところです。本人がどうこう言った…とかはまったくないです。

②草野さんへの質問です。渚ゆう子さんのヴォーカル・ディレクションで苦労した点は? 渚さんは元々ハワイアンを歌ってらしたようですが。

草野:ハワイアンを歌ってたクセはそれほどでもないけど、ベンチャーズの「京都の恋」とハワイアンでは全然違いますからね。「京都の恋」の前に京平さんが書いてくれた曲があったけど売れなくて、本人が“嫁に行きたいから歌手を辞める”って言ってたんです。それで、じゃあこれ一発やっておけばというので「京都の恋」をやったらこれが1位になっちゃって。結局嫁にも行かれなくなってそのままズルズル引っ張って申し訳なかったと思います(笑)。

③草野さんはフリーの作家と組んでヒットを放ったパイオニアだと思いますが、特に仕事がしやすかった作詞家、作曲家はどなたですか?

草野:しやすかったのは、アレンジャーは川口真、作詞作曲は橋本淳、筒美京平、なかにし礼とか。僕は自分の好きな作家としかやってないもんですから、どっちかというと偏ってるんですね。酒井さんみたいに阿木、宇崎コンビとかはやってない。でも実はその二人の作家デビュー曲(ジュリーとバロン「ブルー・ロンサム・ドリーム」/69年)をやってます。

──作詞作曲の組み合わせで発注されることも多かったと伺ってます。橋本=筒美だったり、なかにし礼=鈴木邦彦、浜圭介=千家和也と。

草野:だから僕は阿久=都倉はやったことがない。

④草野さんへの質問です。「上を向いて歩こう」の坂本九さんのしゃくり上げる歌い方(ヒーカップ唱法)には最初どんな印象を持たれましたか?

草野:ジャズ喫茶で九坊(坂本九)はプレスリーのしゃくり上げ唱法の真似をして歌ってましたから、僕は全然異様に感じませんでした。永六輔さんは異様に感じたようで、巷で言われるように怒ったわけではないんですが、“もう少しストレートに歌ったら”って言ってました。中村八大さんはしゃくり上げる歌い方に賛成してました。
⑤最近はネットでかつての名曲を聞くことができ、新しい世代や海外からも再評価の機運がありますが、それはどうお考えですか?

酒井:昭和歌謡、シティ・ポップの再評価は個人的には凄く嬉しいことです。いい傾向だと思います。強いのは平成よりも昭和の音楽ですね。昭和は戦争もあった、オイル危機や好景気もあった、そういう流れの中で生まれた歌というのはやっぱり残るんですよね。平成だとイメージに残るのは安室奈美恵ですね。

草野:昭和歌謡の再評価は僕らは凄くうれしいですよ。

⑥筒美京平さんとは今でもお付き合いはありますか? またご一緒にお仕事をされる予定はありませんか?

草野:最近お身体の具合があまりよくなくて、ご自宅でほとんど籠った生活をなさってるので、我々も申し訳ないから会いに行ってないですね。ただもうこれから先、今の音楽の時代になっちゃうと我々の出番はもうないんですよ、多分。いわゆる職業作家が書いて、それを生業としているディレクターが一から設計図を描いて立ち上げていくっていう作り方が今はない。

酒井:希少価値で時々やっていくのはいいかもしれませんよ。筒美京平さんのことで言えば、これは私が言われたんじゃないですが、これまで沢山編曲をした中で一番気に入っているのは「魅せられて」だそうです。私も筒美さんと仕事をしたいと電話はしてるんです。たしかに体調はよろしくなくて一歩も家から出ないんですが、電話ではお元気な様子です。

──筒美先生は80年代に入ってからは編曲は他の方に任せてらっしゃって、だから1979年の「魅せられて」がご自身の編曲の集大成だと仰ってるんですよね。

⑦カバー・ポッップスの先駆者としての草野さんの選曲の基準は何ですか?

草野:最初に言ったように兄貴がやってた『ミュージック・ライフ』の編集部にはその時々のレコード会社の一押しの曲が集まってくるので、そこから日本語がノリやすい曲、日本人好みの曲を探してました。60年代は毎月新譜を出さなきゃならなかったから、弘田三枝子、坂本九、森山加代子に合う曲、歌わせたい曲を探して、新人が出てきたときには新しい切り口とかも考えました。まぁ今のように時間をかけずに録音してました。最初に東芝に入ったときに“一曲一時間で上げろ”って言われて、スタジオも当時は自社にはなくて借りてましたからね。

⑧酒井さんが、岩崎宏美さんをゲストに迎え古賀政男記念館で講演されたときに、宏美さんに“君は欲しい物を全部持っている”と仰ってましたが、その意味は?

酒井:岩崎宏美さんは寿命が長いと思うんです、歌唱力もあるし。それで歌手にとって何が大事かと言えば、自分でセルフ・プロデュースする才能を持ってるかどうか。この人に頼めば自分が生きる──という力を自身が持ってるかどうか。ともかく声は抜群、音感はいい、やる意欲がある。そこに自分の企画も持ってる。それを私は指摘したんだと思います。歌手は最終的にセルフ・プロデュース力を持ってる人が残っていくんです。最近ではAKBの指原(莉乃)さん、あの人はセルフ・プロデュースの塊だと思うんです。

⑨一年間限定で、国籍・性別・年齢・有名無名・ジャンルを問わず手掛けてみたい一名、グループっていますか?

草野:最近の音楽番組とか見ないので今の歌手とかは分からないっていうのが本当のところですが、東芝時代に“この人やりたいな”って思ったのは渡辺真知子さんです。「かもめが翔んだ日」(78年)を聴いたときに、ああこの人で京平さんと作りたいなぁって思いました。やっぱりあの声ですね。

酒井:弘田三枝子的な要素もあるし、そう思うんだったら今から交渉してみれば。

草野:もういいです(笑)。引退させてください。

──真知子さんはソニーですが、酒井さんのプロデュースではなく他の方の担当だったんですよね。では酒井さんがプロデュースしたいと考えてらっしゃるのは?

酒井:もう二度くらい交渉してまとまってないんですが、女優の綾瀬はるかさん。彼女で世の中が明るくなるような歌、昔でいうと吉永小百合の「いつでも夢を」(62年)みたいな歌を、今様なJポップ系の作品でやるといいと思うんです。あの人だったら誰でも好きになる、好きになる声をしてるんです。私は諦めてはいません。

ここで、6月5日発売の酒井さん最新プロデュース曲、高齢化の中の純愛をテーマにした(クミコ「妻が願った最後の七日間」)のPVが場内に流された。

──では最後に、今回は「音楽のDNA」というのがテーマですので、草野さん、酒井さんが次の世代、令和の時代に残していきたい曲をご自身の制作された作品の中から選んでいただきました。それをアナログ盤でかけたいと思います。まず草野さんの一曲、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」(63年)。

草野:一曲残したい…っていうのはいっぱいあり過ぎて困っちゃって、自分でやったのは全部残したいんですが(笑)。「夜明けの唄」(64年)にしようか、「見上げて〜」にしようか迷ったんです。「夜明けの唄」は最初坂本九でやったんですが、ちょうど「幸せなら手をたたこう」(64年)と被ってしまって売れなくて。それでこのまま埋もれさすのはもったいないって、いずみたくさんが岸洋子に歌わせたんです、歌詞の“僕“を“私”に変えて。そうしたら勤労青年の「見上げて〜」の続編みたいだった歌が恋の歌に変わって、これは岩谷時子さんの詞の魔術だと思ってます。

──では酒井さんの曲を。山口百恵さんで「いい日旅立ち」。

酒井:この曲は特別な思いがあるんです、私は日本コロムビアの就職で面接を受けたときに文芸部長から、“君はどういう作品を作っていきたいんだ?”と尋ねられて何も考えてなかったんですが、山本薩夫監督の作品のような、“故郷、旅に出る”という“わが町”のような歌を作ってみたい──と言ったんです。これが文芸部長の胸に入ったらしく採用のきっかけになったんです。そういう思いがあって、「いい日旅立ち」は今でも愛着のある曲です。それも国鉄のキャンペーンで、願ったら来た!っていう気分でした。今、新幹線に乗ると必ずこのメロディが流れるんです、これを聞くとその時の年齢に戻るような嬉しい気分になります。だから一番嬉しい思い出深い作品ですね。

──「見上げてごらん夜の星を」も「いい日旅立ち」も既にスタンダードになっていますけど、令和の時代にも更に歌い継がれていくことだと思います。本日は長い時間ありがとうございました。

この後お二人を囲んでの懇親会が行われた。

 

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    [登場歌手] 井上陽水、ザ・モップス、山口百恵、浜田省吾 ほか

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    [登場歌手] 松田聖子、キャンディーズ、伍代夏子、藤あや子 ほか

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    渡辺音楽出版時代からヒットを連発し、独立後も若い才能を発掘・育成し続けるマエストロ
    [登場歌手] 沢田研二、アグネス・チャン、吉川晃司、山下久美子 ほか

    第十章 高橋 隆
    ミュージシャンとしても1位を獲得したヒット請負人は、担当した歌手に代表曲をもたらす“中継ぎのエース”
    [登場歌手] チェリッシュ、森 進一、石野真子、小泉今日子、荻野目洋子 ほか

    第十一章 島田雄三
    「個の主張」を重んじ、独自の創造性でアーティストの魅力を引き出すエキスパート
    [登場歌手] 中森明菜、徳久広司、倉沢淳美、杉浦 幸 ほか

    第十二章 田村充義
    時代の変化とアーティストの個性を見極め第一線でヒット曲を生み出し続ける制作のプロフェッショナル
    [登場歌手] 小泉今日子、広瀬香美、とんねるず、ポルノグラフィティ ほか

    第十三章 長岡和弘
    アイドルからシンガーソングライター、アニメ、映画音楽まで、幅広いフィールドで活躍を続けるマルチプロデューサー
    [登場歌手] 斉藤由貴、石川ひとみ、谷山浩子、CHAGE and ASKA、半崎美子 ほか

    第十四章 吉田格
    1980〜90年代のソニーを支えたオールラウンド型プロデューサー
    [登場歌手] 南野陽子、原田知世、知念里奈、郷ひろみ ほか

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