クイーン・ファンが一斉に集うイベント「秋のクイーン・デイ」その第4回目が11月23日羽田空港TIAT SKY HALLにて開催された。当日はロビーにフレディ・マーキュリーへの献花台が設置され、ロンドンのフレディ宅の造園も手がけた高原竜太朗氏が生けられた花を取り囲むように入場者の方々が持ち寄った多くの花束が飾られた。またフレディの遺志を継いでHIV AIDS予防と撲滅を掲げる「マーキュリー・フェニックス・トラスト」の募金箱も設置され、イベント冒頭ではクイーン・コンシェルジュ吉田による同団体の活動の説明と、管理者でもあるジム・ビーチ氏の近影も紹介された。

東芝EMI時代のクイーン担当ディレクターが語る プロモーション来日、4人が揃った最後の来日公演、フレディお忍び来日等


MUSIC LIFE CLUBでは前半に行われたトークタイムの様子をレポート。登壇されたのは東芝EMI時代のクイーン担当ディレクター森俊一郎氏と石井由里氏。クイーン研究家石角隆行氏の司会進行で行われた。

クイーンの日本発売がワーナー・パイオニアから東芝EMIに移った1983年から森氏がデイレクターを担当。最初のアルバムはブライアン・メイ&フレンズの「無敵艦隊スターフリート(日:1983年12月発売)」。クイーンでは「ザ・ワークス(1984年)」だった。この作品時、なんとジョン・ディーコンとロジャー・テイラーのプロモーション来日が実現、当時の数々のエピソードが紹介された。

 

森俊一郎(以下 森):僕もクイーン・ファンで学生時代からずっと聴いていました。自分から担当に手を挙げたかどうか覚えてないんですど、世代的なこともあって、コイツにやらせてみよう─という雰囲気があったと思います。入社2年目でした。クイーンで手がけた最初のレコードはシングル「RADIO GA GA」。それまでの音とは違っていたし、イントロも長かった。当時〈ヒットはラジオから──〉という図式でしたからこの長さはラジオ番組ではかけづらいなと思い、ショート・ヴァージョンをこっそり作ったんです。でもそれを配る前にアメリカのキャピトル・レコードも同じように考えてエデイット・ヴァージョンを作ってきたので、それをプロモーションで使いました。

石角隆行(以下 石角):ちょうどMTVが出てきて映像がメインになってきた頃、ロジャーがラジオに〈もっと頑張れ〉って作った曲。この曲もしっかり日本で浸透したというか。

:コンサートで盛り上がる曲なんですけど、曲として大きくなったのはやはり映画「ボヘミアン・ラプソディ」以降だと思います。どんどん大きくなって今やライヴでは欠かせない曲になってますけど、当時はそこまでではなかったと思います。

石角:そして気合の入った東芝EMIは『ザ・ワークス』の宣伝にジョンとロジャーのプロモーション来日を実現させます。

:それまでもプロモーション来日というのはありましたけど、これだけの大物が来たというのは多分初めてくらいだったと思います。そこで5日で怒涛のようなスケジュールを入れて、後で怒られました(笑)。


主な取材媒体だけでも新聞、音専誌、週刊誌に加え、昼のTVの人気番組「笑っていいとも」にも出演。さらに屋外でのジョンとロジャーの2ショットも撮影された。

 

:撮影した場所は、溜池の交差点にあった東芝EMIの屋上です。遠方に国会議事堂が見え手前にあるのが当時の首相官邸、それが見えるので社員も上がることができない所なので警備の人に“どうしても屋上で撮りたいから5分だけ時間をください”と断りを入れて二人を連れて行き撮影しました。カメラマンはMUSIC LIFEの長谷部さん。写っている二人はかなりリラックスしていますけど、さすがに10分を越えると警察が来てしまうので周りは緊張してました。ただ。長谷部さんは撮るのが早いし、少ないカット数できちんと撮ってくれる。長谷部さんじゃなかったら無理だったかもしれません。

石角:そうやってたくさんのキャンペーン取材が終わって、夜は食事を一緒にして。

:細かくは覚えてないんですけど、EMIの向かいのビルにあったレストランや泊まっていたキャピトル東急で食事しました。その後、ディスコに行くぞ!と六本木や骨董通りの方へ何ヶ所か回って、またレキシントンに戻るとか。

石角:ジョンとロジャーはどちらがお好きな感じでした?

:二人とも遊ぶのは好きなんですけど、だんだん酔っ払ってくるとジョンの方がよく分からなくなってきて結構派手にコケたりしてました(笑)。

石角:真面目なキャラに見えるんですが。

:真面目なんですけど、ちょっとお酒が行き過ぎると、とても自由な方になってしまうので。ロジャーの方が割とキチッとスタイルを気にしてるところは常にあります。

石角:深夜3時4時まで遊んで、翌日は昼から取材。

:かなり忙しい日程だったので、一緒に来ていたセキュリティが遂にキレてスケジュール表をビリビリに破く──ということもありました、それはちゃんと取りなしてなんとかなったんですけど。僕の反省点としては〈詰めすぎた〉ということですね。

石井由里(以下 石井:それ以降『スケジュールには必ず休みを入れろ』って言われるようになりました。実際に取らなくてもいいから、書面では休みを入れろと。

:ま、そこまでの大物は初めてだったのでみんな慣れてなかったんです。最初はフレディやブライアンは来ないのでどのくらい取材が入るか心配だったんですけれど、次々に入ってさすがクイーンだなと思いました。
石角:洋楽のディレクターはそういったプロモーションの付き添い以外にも、結構色々な仕事があるんですよね。

:一度仕事の種類を書き出したことがあるんですけど、結構あるんです。

石井:当時は情報もなかなか入ってこなかった。今と違ってインターネットも発達していないし、アーティスト自身がSNSで発信したりもないし。80年代から90年代前半くらいまでは、レコード会社のディレクターが発信しない限り情報はないし、雑誌に出るのも1〜2ヶ月後。

:だからウソでもいいから何か情報を出せと言われました。

石井:小ネタでいいから何かないとラジオでオンエアもされないから、と。それと邦題やキャッチコピーをつけるのもマーケティングの一環でやるんですけど、写真は海外で決められたものを使ってジャケットを作ります。中には日本のマーケットだと厳しいかな──っていう写真もあって、その時は日本向けのアーティスト写真を使ったり、許可を得てジャケットを変えたりしないと上手くいかないことがあります。

石角:日本語タイトルを訳して先方に見せたりするんですか?

石井:それはないです、(邦題を)付けてることも知らないと思います。

:気がつかれて怒られたことはありますけど(笑)。

石井:アーティストの方も“これはなんと書いてあるの”って聞いてくるんですけど、(通訳に)根回しをしておいて、タイトルの意味を聞かれたらカタカナで答えてくださいってお願いしておきます。

:売るために良かれと思ってやってますから。

石角:そして1985年、担当していたクイーンが遂に来日します。

:4人が揃った来日としてはこれが最後。本当にすごくいいコンサートだったんですよ。東京最後、5月11日代々木競技場第一体育館は鳥肌モノでした。

石角:ちょうど同じ頃にCBSソニーからフレディ・マーキュリーのソロが出ました。

:もちろん4人での取材はちゃんと受けてくれるんですけど、フレディはなんとなく気持ちがそちらに行ってるような感じで──。

石角:このツアーではファンと会う機会がいくつか作られてます、武道館の楽屋にファン10名様ご招待とか、青山レコーディング・スクールのブライアン・メイ・ギター教室とかがありました。

:青山の帰りに渋谷のうどん屋に寄ってブライアンが食べた──という話を聞いたことがあります。

石角:一方フレディは西麻布辺りでお買い物。

:この当時よく外国人アーティストが買い物に行った「アーストンボラージュ」へ。ここはデュラン・デュランも行ってます。

石角:この時も機会があると、メンバーと一緒に食事に行かれたりとか。

:向こう側のスタッフも連れて一緒に赤坂の居酒屋に行った記憶があります。結構、割り箸とかおしぼりとかビュンビュン飛んで、みんな投げ合うんですよ(笑)。スプーンで掬ったアイスクリーム投げとかは主にフレディがやってました。まぁ打ち上げ的な時でしたから気分的に軽くなっていて。そういう居酒屋とか気取らない店をロジャーとかは好きで、取材合間の昼間に行って定食を食べたりしてましたね。当時世間的にクイーン解散の噂とかありましたけど、近くで見ていると逆にそんな感じは分からなかったです。何年もやってきているので細かいところでは色々あるでしょうけど、人前の場では〈クイーンという看板の下にいる〉ということはあるので。

石角:翌86年にはフレディが単独で来日します。9月24日から10月12日の3週間、結構長い滞在です。

石井:最初、EMIから連絡が入ったんです。〈来週からフレディが日本に行くけれど、プライベートなので構わないでよろしい。ただ何かあるかもしれないから一応気に留めておくように〉。結構長い滞在で、しばらくしてまたEMIから連絡が入りました。〈フレディが何もしないことに飽きてしまった。本人が取材を受けると言っているので、(指名で)MUSIC LIFEの取材を入れて欲しい〉。すぐに連絡を入れたところ東郷編集長は海外取材だったので、編集部の塚越みどりさんと長谷部カメラマンがホテル・オークラに来てくださいました。私は入社2〜3年目の新人だったので上司二人と一緒にオークラのスイートルームに向かいました。廊下には火鉢がうず高く積まれ、人が一人通れるかどうかの隙間を通ってフレディのいる部屋へ。中にはシルクやサテン地のようにキラキラ光るブルーのスーツを着たフレディがいて、塚越さんと二人でまずそのスーツをお褒めしたら、すごく喜んでくださって “これはアントニー・プライスというデザイナーに作ってもらったの…”と言ってクルッと回ったんです。塚越さんはすごく小柄な方で、それに気づいたフレディが “なんて細いウエストなの!!”と。そこから取材準備中は世間話をしました。〈誰々と仲がよくて、時々一緒にバスを連ねてサッカーを見に行ったり、自分はそんなにサッカーは好きじゃないけど仲間が好きなので〉といった話を。フレディはしゃべり口調というより雰囲気がガールズトークみたいな感じで──、後から塚越さんもそう仰ってました。気がついたら一緒に行った上司二人はいつの間にかいなくなっていて(笑)。先ほどのサッカー好きな仲間というのはフレディを含めて三人いて、それぞれの身体的な特徴をニックネームにして呼んでるということで、そのメンバーでちょっとバンドを結成しよう──という話があったみたいです。ニックネーム〈NOSE〉はロッド・スチュワート、〈TEETH〉がフレディ、〈HAIR〉がエルトン・ジョン。そんな自分たちを優しく見守ってくれているのが〈MAMA〉クリフ・リチャードということで、翌年『TIME』というクリフ・リチャード主演のミュージカルの主題歌はフレディが歌っています。

石角:『TIME』にサプライズで登場してクリフと一緒に歌ったのがフレディ生前公で最後のパフォーマンスでした。

:でも、この三人なら曲を書いて欲しかったですね。

石井:この後フレディはソロでシングル「グレイト・プリテンダー」を出します、アルバムに先駆けて──ということでしたけれど結果的にアルバムは幻となって。

石角:それに替わったのが大ファンでもあるスペインのオペラ歌手モンセラート・カバリエとの1988年のアルバム『バルセロナ』。そして翌1989年がクイーンのアルバム『ザ ・ミラクル』。この時キャンペーンで来日するかもしれないという話があったとか。

:EMIからそういった話が来た時に、ひとことで言うと僕が断った──ということになってるんですけど、社内でも色々検討した結果です。でもこのアルバムすごくいいアルバムで、シングルもいっぱい切ってるし、それぞれのPVもお金をかけてすごく良くできてる。けれど、この時代は音楽専門誌からも〈絶対クイーンの取材をしたい〉という話はそれほどなくて、LAメタルとかもあってクイーンが真ん中にいられなかった時代だったと思います。

石角:そして1991年に『イニュエンドウ』。

:よく覚えてはないんですけど、急に発売された印象はあります。年明けすぐの発売なので年末忙しかった覚えが。これもすごくいい内容のアルバムだったので、まさかその背景にああいうストーリーがあるとは──。11月23日にフレディのHIV感染が発表されて、翌24日に亡くなったという連絡が入りました。僕らも公式発表以外は特に聞いてはいないので、唐突感はありました。担当者的にはそこからが大変でした。問い合わせは来るし、EMIで「ボヘミアン・ラプソディ」をもう一度シングルで発売する話になっていたので、それに日本側も乗って。多分12月初頭に臨発で組んでいたんでしょうね、クリスマスには全英1位になりました。これは愚痴じゃないんですけど、それまでしばらくクイーンのことを取り上げてくれなかった皆さんが、こうなると来るんだな…と、でも起きた事の悲しさはありました。そして翌年のフレディ・マーキュリー追悼コンサートには一大取材陣を連れて参加しました。

 

この後、日本で独自にリリースされたアルバム『クイーン/グレイテスト・カラオケ・ヒッツ』(オリジナル音源使用)、『クイーン・イン・ヴィジョン』(クイーンのTV-CF曲を数多く収録した日本企画盤)、『ジュエルズ』(TVCF、ドラマ、映画などで多数使用された大ヒット曲を収録し200万枚を売り上げた)などが紹介された。

 

:クイーンの楽曲をテレビCMやドラマ主題歌に使うと、その後のCDセールスにつながるということをマネージャーのジム・ビーチも理解してくれていて、使用に関しても割とスムーズでありがたかったです。世界中でもクイーン楽曲のCM使用は日本が一番多いんじゃないでしょうか。ともかくクイーン・ファンがどんどん次の世代に替わってきているという印象でした。

石角:この後クイーンは結成40周年を機に2011年EMIからアイランド・レコードに移籍します。日本での発売はユニバーサルミュージック。で、たまたまそこに石井さんがいらした。

石井:クイーンが移籍する前に私も移っていてカタログ部門の責任者をやっていました。そこで、クイーンのカタログを扱うことになったということで早速ジム・ビーチに呼ばれてロンドンに行きました。40周年を盛り上げるということで、日本独自の「クイーン展」をMUSIC LIFEで初来日以来ずっと撮られていた長谷部さんの写真を使用して企画させてもらいました。当初イベントの目玉に何か必要だ──ということで、フレディが自宅で弾いていた白いグランドピアノを持ってくるという話があったんですけど、輸送費や保険料が莫大になるので中止になりました。この時〈40周年に合わせてドキュメンタリーの映画を作っていて、来年には公開されるから〉とジム・ビーチさんは仰っていたんですけど延びに延びて、結局早すぎた「クイーン展」になりました。

石角:映画「ボヘミアン・ラプソディ」の公開は2018年までずれこみましたからね。

石井:最後に先ほどの火鉢のお話しを。なぜフレディはあんな大量に買い込んだかというと、ちょうどロンドンの自宅を改装して日本庭園を作るという計画があって、火鉢をいくつか庭に埋め込みたい──ということで。

石角:それを造られた庭師 高原竜太朗さんが今日来ていらしていて、入り口にあるフィレディの献花台にお花を生けていただいてます。高原さんもフレディが戻った後に船便ですごい数の火鉢とか物が届いてびっくりされたそうです。では、以上でトークを終わらせていただきます、森俊一郎さん、石井由里さん、ありがとうございました。

 

後半のライヴはBRIGHTON MAGIC。

 

ギタリスト清水一雄(QUEENESS)、ヴォーカル&キーボードPONCHAN(F-BAND)、ベース山田“Antony“サトシ(GUEEN)、ドラムス赤間慎(RE-ARISE)という編成でパワフルなライヴが行われ、場内は観客が立ち上がらんばかりの盛り上がりとなった。

 

 


BRIGHTON MAGIC/SET LLIST

01. Brighton Rock
02. Tie Your Mother Down
03. Hammer To Fall
04. Somebody To Love
05. Don’t Stop Me Now
06. My Melancholy Blues
07. Love Of My Life
08. Kind Of Magic 〜 Brighton Rock Solo Part
09. Now I’m Here
10. Bohemian Rhapsody
11. We Will Rock You 〜 Friends will be friends 〜 We Are The Champions

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