音楽のDNA – ヒットソングにビジネスを学ぶ Vol.1 草野浩二氏×酒井政利氏トークイベントレポート

5月11日、トークイベント『音楽のDNA — ヒットソングにビジネスを学ぶ』のVOL.1が、ゲストに音楽プロデューサーの草野浩二氏、酒井政利氏を迎えて開催された。モデレーターは『ヒットソングを創った男たち 歌謡曲黄金時代の仕掛人』の著者、濱口英樹氏が担当。 TV番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)のテーマ曲に乗って草野氏、酒井氏が登壇。濱口氏の司会により近況を含めた今回のイベントの概要が紹介された。 ──ヒットメーカーに相応しく『ザ・ヒットパレード』のテーマ曲でお迎えいたしました。センターにいらっしゃるのが草野浩二さんです(場内大拍手)。そして上手にいらっしゃるのが酒井政利さん(場内大拍手)。本日はよろしくお願いいたします。この本『ヒットソングを創った男たち』の第一章が草野浩二さん、第二章が酒井政利さんで、各々がこれまでに手がけられた400曲くらいのリストも掲載してあります。このお二人が揃うというのはとても貴重な機会なので色々伺おうと思うのですが、お互いに初めて会ったときのことを覚えてらっしゃいますか? 草野浩二氏(以下草野):初めてっていうのはいつ頃だろうね、まだあなた(酒井氏)がコロムビアにいた頃。ただ、今みたいに仲良くはなかった(場内爆笑)。 f あの頃はレコード会社同士バチバチやっていて、特に東芝(草野氏勤務)なんかは一番新しい会社で、キング、コロムビア、ビクター、テイチク、ポリドール5社しかなくて、東芝がポリドールの次に出来た6番目の会社だったんです。その後にできたのがクラウン、だからできたての頃は各社ライバル意識がありました。今みたいにレコード会社同士の交流ができてきたのは、我々がヒットを出して会社の顔みたいになって、皆同じ歳くらいの人たちと仲良くなってから。いわゆる作家の専属制がなくなってフリーの作家を通じての関係ができて、例えば皆で筒美京平を使い回しにしたり(笑)、橋本淳やなかにし礼がいたり皆で共通の作家と仕事を始めたからね。それまではコロムビアの人は古賀政男さん、ビクターの人は?田正さんがメインだったけど、フリーの作家を使えるようになってディレクター同士も交流するようになったみたいな気がしますね。 ──GS(グループサウンズ)の大ブームが67〜68年で、その頃からフリーの作家の時代に突入するわけですけど、酒井さんは68年に第一期生でCBS・ソニーに入られて。 酒井政利氏(以下酒井):CBS・ソニーの前に日本コロムビアにいました。私は他メーカーの東芝とかビクターやキングには余り興味がなかった。コロムビアは本当に大きなレコード会社で、そこで揉まれてたから社内には神経を注いだけど、社外にはもう全然関心がなかった。だから後からですね、CBS・ソニーに行ってから交流が深まりました。 ──その頃はまだ20代で、すでに若手の頃からヒットをたくさんお出しになっていてレコード会社の顔だったんですけど、お互いの仕事ぶりをどう評価していたか──今だから言えるお話を。 草野:共通の作家さん、例えば京平さんから酒井さんはどういう仕事ぶりなのか…とかなんとなく聞きましたけど、詳しく聞いた覚えはないですね。 ──この本の中では、草野さんはコロムビアの名ディレクター泉(明良)さんがプロデュースしたいしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(68年)を聴いたときに…。 草野:あれは京平さんたちと、奥村チヨで小唄風な歌をやろう…っていう話をしてたら、いしだあゆみで先にやられちゃって。 ──突き放すような歌い方で。 酒井:それもね、いしだあゆみは元祖じゃないんです、筒美京平さんの嗅覚、触覚かな…あれは西田佐知子なんですよ。京平さんはポリドールにいたから西田佐知子のやや投げやりなワン・ビブラートの歌い方を活かしたくて、それを橋本淳がいしだあゆみに教育したんです。いしだあゆみは上手くなかったけど、上手くない人が掴んだ方が大きいんです。上手い人が上手く歌っても当たり前で、下手な人が上手く歌うと表情に出る。それを引き出したのが橋本淳さん。いしだあゆみとかは今で言うとJポップの流れなんです。当時コロムビアに入って無我夢中でやってた我々が一番影響を受けたのは「黒い花びら」(59年/水原弘)や「上を向いて歩こう」(61年/坂本九)。その新鮮さ、あれがJポップの始まり、一番の大ヒットだった。 ──「黒い花びら」や「上を向いて歩こう」も新興のレコード会社東芝から生まれた。 酒井:そこから新しい波が起きてきた。 ──その後CBS・ソニーでアイドル・ポップスなどの流れも出てくるのですが、お二人がお会いになるのはいつ以来ですか? 酒井:草野さんは岩谷時子賞の審査員をされてたし、レコード大賞の審査とかでもしょっちゅうお会いしていて。 草野:一番最近は美佐さん(渡邊美佐)らとご飯を食べたとき。 酒井:あ、そうですね。だから今は草野さんが一番目の古株、僕が二番目の古株みたいなものなんですよ。 ──そんなお二人がステージで話されるのは。 酒井:今日すごく楽しみにしています。 ──ありがとうございます。 この後、モニターに草野氏、酒井氏それぞれのプロフィール、影響を受けた曲や代表曲のシングル・ジャケットが映し出され、音源を聴きながらトークが続けられた。 ──草野さんが1960年に新卒で入られたのが東芝の。 草野:東京芝浦電気のレコード事業部です。エレベーター事業部とか色々事業部があった中のレコード事業部で、それがその年の10月に東芝音楽工業というレコード会社になったんです。 ──22歳での初ディレクションがダニー飯田とパラダイス・キングの「悲しき六十才」(60年)でこれがヒットして、カバー・ポップスの黄金期が60年代。そして坂本 九さんの「上を向いて歩こう」がアメリカで火がついてチャート1位になったのが1963年…となるんですが──まずはご自身が最初に影響を受けた曲がハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」(52年)、カントリーということで。 草野:僕が物心ついた昭和25年(1950年)は、戦争が終わって5年くらい経った頃で、兄貴(草野昌一氏〔作詞家 漣健児〕)がラジオでFEN(当時は進駐軍放送といわれた局)をよくかけていたのでそれを聞いてました。米兵はカントリーが好きですから番組もカントリーが多くて、ハンク・ウィリアムズやハンク・スノウ、ハンク・トンプソンのスリー・ハンクスとかがしょっちゅうかかってた。でも英語はまだ分からなかったし、当時はまだ英語教育なんかできてなかったから、ヒアリングで歌詞を起こして、カタカナでこの「ジャンバラヤ」を覚えて歌ってました。この曲だけじゃないですけど、カントリーとハワイアンが僕の音楽の原点ですね。 ──では代表曲を聞きながらお話を伺いたいと思うのですが、まずは言わずもがなの一曲「上を向いて歩こう」。 草野:NHKの『夢であいましょう』という番組からなんだけど、その前に作曲の中村八大さんのリサイタルがあって、それ用に曲をたくさん書かれた中から坂本九がこの曲を歌った。それで、すごくいいからすぐレコーディングしようってなったら、当時放送していたNHKの『夢であいましょう』の今月の歌に決まって、さらに評判が良かったから倍の2ヶ月放送になって。でもアメリカで売れるとは全然思ってなくて、最初アメリカで1位になったって聞いたときも──向こうで誰かが英語でカバーしたものが売れてるんだろう──って思ってた。だって戦争が終わって20年も経ってないのに、敵国だった日本語の歌がアメリカで売れるわけがないし、歌詞の意味も分からないわけだから。ところが九坊(坂本九)の歌で売れてるって聞いたときは、“え、なんで?!“って思った。だってドイツ語の歌もフランス語の歌もアメリカで1位になったのは一曲ずつくらいしかないのに…。最初からアメリカで売ろう!と思って売れたんだったら僕もそっくり返って歩くんですけど、拾った宝くじが当たったみたいなものだから(笑)。後になってアメリカに行ったときに、“お前はこの曲でいくら稼いだんだ?”って訊かれて──アメリカはプロデューサー・システムだからディレクターにも印税が入るんだけど──、僕は東芝の社員だったから“月給で500$(1$=250円の頃)くらいだ“って言ったら向こうのヤツがヒックリ返ってました(笑)。 ──中村八大さんはフリーの作家の先駆けですよね。 草野:僕が1960年にディレクターになった頃はレコード会社も5社しかなくて全部が専属作家制度を敷いていたから、新しくできたばかりの東芝がビクターやコロムビアの作家を使うわけにはいかなかった。でもフリーっていったって、永さん(永六輔)、八大さん、宮川泰さん、岩谷時子さんくらいしかいない時代だったんで、僕は困り果ててカバー・ポップスに走ったわけですよ。まだ英語の歌詞をカタカナにして覚えてるような時代でしたから、アメリカの歌を日本語に通訳してあげて歌わせる…っていうことに目をつけて。まぁ僕が子どもの頃から既に江利チエミさんの「ウスクダラ」(54年)とか雪村いづみさんの「青いカナリヤ」(54年)のように外国曲を日本語にしてヒットしていた曲がいっぱいあったのでそれをどんどんやろうと。で、たまたま兄貴が『ミュージック・ライフ』っていう洋楽の雑誌をやっていたので、そこの編集部に行くと各社のテスト盤が山のように来ていて、レコード会社の一推しも分かってね。そこで力を入れそうな曲で日本向きの曲をカバーしたんです。 ──で、兄貴ちょっと書いてくれない?って頼んで──。 草野:訳詞をするのが僕と同僚だったホセ・しばさきさん(柴崎宗左)っていう学芸部にいたディレクターで、彼に詞を頼んでたんですけど、彼ひとりじゃ追いつかないので、ミュージック・ライフ/シンコー・ミュージックにアルバイトでいた安井かずみが<みナみカズみ>のペンネームで訳詞をして。それでも足りないので兄貴に頼んだんですよ。兄貴は既にシンコーで出していた本の上で訳詞をやっていて、その中で「赤鼻のトナカイ」が流行ってたんですけど。 ──新田宣夫さん名義で。 草野:それで、「ステキなタイミング」(60年/ダニー飯田とパラダイス・キング、メイン・ヴォーカルを坂本九)から漣健児が生まれたんです。 ──酒井さんは、先ほどの「上を向いて歩こう」の頃は松竹にいらした? 酒井:もう日本コロムビアにいました。「黒い花びら」とか「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」(63年/ジェリー藤尾)には凄く影響を受けてるんですよ。「遠くへ行きたい」は今でいうJR<ディスカバー・ジャパン>キャンペーンの第一弾のようなもので、私はその後「いい日旅立ち」(78年/山口百恵)や「2億4千万の瞳」(84年/郷ひろみ)を仕掛けるんです。「上を向いて歩こう」は、今、話を聞いていて思ったんですが、売ろうとかスターにしようとかっていう邪念なしで作ってるんですよ、リサイタルでキャラクターを活かして。ジャニー喜多川さんもこの曲が大好きで、フォーリーブスをやった時に『少年たち』(69年)ってアルバムの中でのテーマにしたんですよ。この当時は永六輔、中村八大がいて。 ──それまでの歌謡曲にはない世界を作りましたよね。 草野:それまでにいた各社の演歌の専属作家にはない、ジャズから影響を受けたポップス。八大さんがジャズ・ピアニストだったから。 酒井:そういう新しい世代から見たら演歌の世界は古臭いし、歌謡曲も古いわけ。だから凄くいい影響の波を与えた東芝の功績は大きいと思うんですよ。 ──新興の会社で、専属の先生に縛られないからできた。 酒井:コロムビアは専属作家はキラ星の如くいるわけです。作詞の西条八十先生から作曲は古賀政男先生から…、そういった専属作家の先生方を起用しなければいけなかった。でも私はそれがダメだったんです、古く感じて。それで若い岩谷時子先生にお願いするんですが、これが発売できないって事件になるんです。つまりフリーの作家は使っちゃダメなんです。でも若い作家の作品に魅力を感じてたんですよね。 ──ここで60年代前半カバー・ポップス全盛時の作品ということで、漣健児さん作詞の弘田三枝子の「ヴァケーション」(62年)を聴いて草野さんにお話を伺いたいと思います。 草野:「ヴァケーション」は各社競作だった、それがイヤだったからわざと「リトル・ミス・ロンリー」をA面にしたんです。そうしたらやっぱり「ヴァケーション」の方が売れて、各社から出た(青山ミチ、金井克子、伊東ゆかり他)中で弘田三枝子が断トツで。 ──この曲で62年の紅白歌合戦に初出場するのですが、当時は15歳。この曲を編曲された大沢保郎さんが草野さんの所に連れてきたのがデビューのきっかけで。でもこの声はなかなかなかった。 草野:歌謡曲の美空ひばりさんに匹敵するような声だった。 ──弘田さんがコロムビアに行ってしまったので、その後釜を…と探されたのが。 草野:奥村チヨです。テレビで〈リキ・ホルモ〉(栄養ドリンク)のコマーシャルをやってたんです。やっぱり、この声に惹かれて大阪まで会いに行ったんです、当時はまだ18歳。ちょうど高校三年生だったので、卒業するまでダメだって言われて、卒業を待ってすぐにデビュー。シルヴィ・バルタンのカバー「私を愛して」(65年)で和製シルヴィ・バルタンって売り出したんですよ。でもそれは売れなくて4枚目の「ごめんネ…ジロー」(65年)が最初のヒット。それからベンチャーズの「北国の青い空」(67年)。 ──その後69年〜70年に「恋の奴隷」「恋泥棒」「恋狂い」とヒットして。 草野:「恋の奴隷」は紅白では歌わせてもらえなかった。結局「恋泥棒」を歌ったんだけど、「奴隷がダメで泥棒はいいのか?」ってNHKに文句言いましたよ(笑)。 ──そうやってヒットはしたんですが、あまりに鼻を鳴らすような歌ばかりだったので、チヨさんが泣いたんですか? 草野:もうこういう歌はイヤだって。で、運良く「終着駅」(71年)が出たんです。 ──大ヒットしました。その前に先ほどの〈恋三部作〉と筒美先生の三部作「くやしいけれど幸せよ」「嘘でもいいから」「中途半端はやめて」(いずれも70年)があって。 草野:それがもう決定的で、「嘘でもいいから」は川内康範が作詞なんだけど、♪抱き抱きしてよ〜、♪撫で撫でしてよ〜って歌詞がもうダメで、チヨが拒否反応を示して。 ──歌わされる…というのも歌謡曲の醍醐味で、シンガー=ソングライターではできませんからね。で、「終着駅」はチヨさんのお好みの曲調で大ヒットした。 草野:作った奴までお好みで(作曲の浜圭介氏と結婚)。 ──そういうオチがついて(笑)。で、ベンチャーズのお話も伺いたいのですが。 草野:ベンチャーズは「二人の銀座」(66年/和泉雅子・山内賢)が最初だった。ディレクターは渋ちゃん(渋谷森久氏)。それから「北国の青い空」(67年)があって、次が渚ゆう子の「京都の恋」(70年)。渚ゆう子はその後も「京都慕情」(70年)、「長崎慕情」(71年)とヒット。その間に欧陽菲菲の「雨の御堂筋」(71年)が売れて。それ以降はあまり売れてないんですよね。 ──その頃は歌謡界でベンチャーズの曲がブームで、どういうところがいいなと思ってらしたんですか? 草野:外国人が作ったのに日本人好みがする歌謡曲のメロディ・ラインだったんです。彼らは来日したときに日本の歌謡曲を聞いて研究してメロディを作ってきて “こういうのを作ったから聞いてくれ”って売り込みに来たんです、まぁダメになった曲もたくさんあるんですけど。というのもギターで作ってくるから音域が広すぎてね、「北国の青い空」だって奥村チヨ以外歌えないんじゃないかな。それを歌いやすく編曲してくれたのが川口(真)さん。 ──草野さんが組んで仕事をされていたのが行方洋一さんという東芝音工のレコーディング・エンジニアの方。この方は草野さん専属というか。 草野:ずっと一緒に仕事をしてました、京平さんや川口さんにも好まれて、“ミキサーは行方じゃないとイヤだ”って。だから京平さんが他の会社、ソニーとやるときも行方は内職でやってました。 ──上村英治二という変名で「木綿のハンカチーフ」(75年/太田裕美)、「東京ららばい」(78年/中原理恵)とかのエンジニアをされて。その行方さんがご自分の著書で、あの歌の上手い渚ゆう子さんもベンチャーズの曲には難儀したと書いてらっしゃいました。続いての欧陽菲菲さんは? 草野:欧陽菲菲は台湾でスカウトして、その後来日してた頃にベンチャーズも売り込みに来ていて。 ──ちょうどタイミングが合ってそれが「雨の御堂筋」になるわけですけど、それに味をしめたベンチャーズは次々と曲を送ってきたと以前仰ってましたが。 草野:ヒドい曲ばかりでね(笑)。 ──(笑)こうやってお話を伺っていると、やはり洋楽がベースになる曲が多いですね。 草野:やっぱり東芝ができたときに専属作家がいなかったということがすべてのスタートなんですよ。それでカバー・ポップスになって、その後京平さんとか鈴木の邦ちゃん(鈴木邦彦氏)とか若い作家が出てきて、そういう人たちと仕事をするようになった。GSの時代になってようやくそういう若い作家が育ったんですね。川口真、阿久悠、橋本淳とかが皆デビューしたんです。 この後、草野氏の担当された坂本九、奥村チヨ、安西マリアの貴重映像が披露された。 ──お待たせしました、ではここからは酒井政利さんにお話を伺います。まずは酒井さんの原点を伺えますか 酒井:私は和歌山県の有田という所が実家なんですけど、そこにあった土手や池が自分の原風景としてあるのですが、小学生のときにその池に映る景色を描いたところ評価してくださる人がいて、それからどんどん絵が好きになり、やがて映画も好きになるんです、映像を浮かべながら空想や妄想をするのが好きで。それで映画会社へ入るのですが、影響を受けたのは山本薩夫監督、そしてソニーに入ってからお会いした寺山修司さん。こういった人たちが凄い影響を与えてくれたわけです。今でも一番拘るのは歌の前にまず“言葉”、テーマ作りです。もっとこうなるんじゃないかっていう妄想ですね。 ──酒井さんは松竹に入社されたものの、映画が斜陽し始めたこともあって日本コロムビアへ。コロムビアでは守屋浩、こまどり姉妹、島倉千代子等々多数のアーティストを手掛けられて、1964年青山和子さんの「愛と死をみつめて」が老舗日本コロムビアで初のレコード大賞を受賞します。 酒井:当時は歌謡曲全盛期で、専属作家との仕事は余り楽しくなかったんです、私も自分はどうすればいいんだろう…っていうストレスもあって。それで、“そうだ、映画を作るつもりになって、脚本があってキャスティングを頭の中に置いて主題歌を作ればいいんだ”って思ったんです。それで原作を探し歩いて見つかったのがこの「愛と死をみつめて」。これは難病で亡くなった大学生の現実にあった往復書簡が元になった話です。私が制作するとき第一に大事にするのが言葉。さっきの草野さんの話を聞いていても、奥村チヨさんはなかにし礼さん〈恋三部作〉との出会いが良かったと思うんです、言葉の洗礼を受けて。そういう思いの中で出会ったのが、まだ本になる前の「愛と死をみつめて」の原作でした。 ──もちろんベストセラーになる前、これは面白くなりそうだなと。 酒井:売れたら映画を作っても面白いし主題歌も作りやすい──ということで 独占契約をもらいまして。時間をかけて詞を作りました。4人くらい候補を挙げて8作くらいできたんですが、その中で一番良かったのが女子大生の大矢(弘子)さんの歌詞、歌の頭にインパクトがあって、♪マコ甘えてばかりでごめんね…。これですべてを言えてる。ですから私はいつも歌の頭を大事にしています、キャッチーで引っかかりになる〈投げる言葉〉が大事なんです。 ──永六輔先生も「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」(63年/坂本九)、「こんにちは赤ちゃん」(63年/梓みちよ)など、歌の頭にタイトルを持ってきて、それで訴求するんだって仰っています。 酒井:曲はクラシックを勉強している新人の作家(土田啓四郎)を紹介してもらって、条件としては日本コロムビアの専属作家になる──ということで書いてもらったんです。それとアレンジですね、曲の頭にインパクトがないとダメなんです。作品のイメージを伝えるアレンジが。 ──その後、1968年にアメリカのCBSと日本のソニーが資本を出しあってCBS・ソニーができるのですが、酒井さんはそこの第一期生として入られる。 酒井:CBSというのは元々日本コロムビアと契約していたんです、でも新しい会社になれば専属作家制はもうないと、大きな夢を描いて志願して行きました。 ──よっぽど専属作家制というのがイヤだったんですね。 酒井:イヤというか、一緒にやらなきゃならない作家が才能があるかどうかがが問題で。 ──そうして出会った寺山修司さんの「時には母のない子のように」(69年/カルメン・マキ)。 酒井:寺山修司さんとはなんとしても仕事をしたいと、渋谷の駅近くの事務所に伺ったのですが、“ソニーというメジャーな会社と仕事をする気は一切ない”と断られまして…三度くらい断られました。当時はアングラ(アンダーグラウンド)の劇団(天井桟敷)の主宰でしたから。それでもようやく遊びに行けるようになってサロンに行ったとき、カルメン・マキや、彼女の当時の恋人・支那虎も含め劇団員30人くらいが集まっていたんです。そこで、寺山さんが“レコード会社の人も来てるから黒板にみんなの好きな言葉を書いて、それを歌詞にして歌を作ってみよう”っていうのを始めたんです。シンガー=ソングライター風な人たちが歌を作る場面を見たのは私は初めてでした。そして30個くらいの言葉から寺山さんが一遍の詞を作り上げて、隅の方に座っていた音楽担当に“おい神田、これにすぐ曲をつけろ”って言って、15分くらいで一曲が仕上がったんです。それが神田紘爾さん、後の小椋佳さんです。小椋佳は天井桟敷のアルバム『初恋地獄篇』(70年)で歌っていて、CBS・ソニーから神田紘爾としてデビューしてるんです。そしてカルメン・マキの「時には母のない子のように」もその中の一曲だったんです。この曲も頭の部分に言葉が投げかけられています、当時の寺山さんが放った「書を捨てよ、街へ出よう」という言葉もショッキングでした、アテンションの強い人で、そういう意味でも師事していました。私にとっては本当に勉強になった恩師です。 ──では続いて南沙織の「17才」。沖縄がまだ返還になる前、沖縄出身のアイドルのデビュー曲です。 酒井:この作品も根底では寺山さんに影響を受けているんです。先ほどのカルメン・マキを見たときに彼女は野性的なひとだと感じたんです、着飾ってなかったんです。寺谷さんの口癖で“若い人は着飾ったらダメだ”というのがあって、私もそういうちょっと野性的な新人がいないかな…と探していたんです。探すときは想念を持つ──こういうことをしたい、こういう人に会いたい──するとそういう想念は叶うものなんです。沖縄のプロダクションのマネージャーが私のそういう思いを知らずに、“テレビ局でこういう子がアルバイトをしている”と写真を持ってきたのが内間明美=南沙織でした。長い髪、陽に焼けた肌の子でこれは自分のイメージしたものとピッタリだ、さっそく会いたいと東京に呼んだのです。それまで〈歌う青春スター〉というキャッチ・フレーズだったのを〈アイドル〉として打ち出そうと、寺山さんとの話でも考えていました。まだ沖縄が返還前で海外だったので簡単にいかなかったのですが、羽田に着いた時の印象は、とにかく彼女は鮮烈でした。周囲の人がエキストラに見えるくらい、彼女だけが際立った自然な美しさだったんです。ただ心配したのはアイドルにしてはちょっと利口そうな顔過ぎる、よく言えば知的だったんです。それで、有馬三恵子さんの歌詞、曲は筒美京平さんでアイドル・ソングを作り始めた。ですからアイドル第一号が南沙織だったわけです。 ──草野 … 続きを読む 音楽のDNA – ヒットソングにビジネスを学ぶ Vol.1 草野浩二氏×酒井政利氏トークイベントレポート